見出し画像

20世紀美大カルチャー史。「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」第13話~ チャーリー・ワッツ追悼・特別編~

※本テキストは、チャーリー・ワッツ逝去の時に書かれたものです。

1990年の1月、大変なニュースが飛び込んできた。

「ローリング・ストーンズ初来日!」

この報が朝日新聞の朝刊に載ってから、私の武蔵境のアパートの電話は鳴りっぱなしであった。

ストーンズを中学生の頃から溺愛していた幼馴染二人から矢継ぎ早に電話があり、「おい!どうする!?」と興奮しながら電話口で口角泡を飛ばした。

コンサートは2月、そしてチケットは1週間後に発売とのことであった。

1990年のこの当時、コンサートのチケットを入手するには二つの手段があった。
「電話予約」と「プレイガイドの窓口で直接入手」である。

我々「幼馴染ストーンズ軍団」はありとあらゆる手段に打って出た。

まず最初は電話予約開始の日、私は電話番号を元に調査し、それが「市ヶ谷の電話局」であることを突き止めた。

当時の電話は「アナログ回線」であり、当然「同じ電話局内」の方が繋がり易いはずであった、理論的には。

私は予約開始の2時間前に市ヶ谷の電話局に到着した。

なんと、全く同じことを考えている人間が何人かいて、局の隣の電話ボックスは埋まっていた。

私は少しだけ離れた電話ボックスを見つけ、籠城した。

開始の午前10時を待たず、「回線を温めるため」に30分前からひたすら電話をかけ続けた。

そして、なんと、ハッと気が付いたら午後5時になっていた。

結局電話は繋がらず、私は流石に諦めて受話器を置くと、受話器を持ってずっと上げていた左肩が硬直して動かなくなっていた。

私は冬の夕暮れの中、肩を落として武蔵境のアパートへ帰った。

次の作戦は「窓口発売」である。

一足先にムサビを卒業して、銀座の煉瓦亭に勤めていた幼馴染がまず徹夜で行列に並んだ。

私は始発に乗って朝の5時半に銀座に行って幼馴染と列を交代し、ヤツはそのまま仕事へと向かった。

そして並ぶこと4時間半、ついにチケットを手に入れた。

しかし、公演は全部で10回ある。

次に私は「競争率が低いと思われる」地方、すなわち実家に帰り、次の発売日に始発で静岡市のプレイガイドに並び、再びチケットを手に入れた。

別の二人もそれぞれに動き、最終的に10公演中の5公演のチケットを手に入れた。

なんとか安堵をしていると、グンから電話があった。

「おい、ストーンズのチケット、手に入ったぞ」

なんとそれは「初日のアリーナ」であった。

グンの親父さんの仕事関係(広告)から入手したものであった。

そして遂に迎えた1990年2月14日、
ローリング・ストーンズ初来日の初日公演の日付である。

「幼馴染ストーンズ軍団」とグンとの我々4人は午後1時に水道橋で待ち合わせをした。

コンサートは午後6時30分であるが、この「歴史的記念日」を味わい尽くすために昼間から集合し、まずは神田の松屋に行って蕎麦をたぐりなら呑むことにした。

瓶ビールを飲みながら、我々は感慨に浸っていた。

1980年発売の『エモーショナル・レスキュー』の時に中学二年生だった我々は、中三になった1981年発売のアルバム『刺青の男』で完全にストーンズの虜になった。

それまで主に聴いていた「1970年代ハードロック」とは全く違うリズム、音色であった。

そして、小林克也司会の音楽TV番組『ベストヒットUSA』で『スタートミーアップ』のMVが毎週流れるや、その外連味タップリのミックとキースのムーヴに完全に虜になった。

そして続く1983年、高校一年生の時に公開された1981年の全米ツアー・ドキュメンタリー映画『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー』は、映画館やVHSビデオを含めたら100回以上観たはずである。

幼馴染で週末集まると、必ずこの映画をみんなで鑑賞していた。

また、同ツアーのライブ・アルバム『スティル・ライフ』は少なくとも500回以上聴いていただろう。

そしてその後、数枚のアルバムを出した後、ツアーに出ることも無く「一時期は完全に解散状態」となり、
「こんなに好きなのに、結局生で観ることはかなわないのか!」
という絶望の中に生きてきた我々である。

さて、蕎麦とビールと共にそんな回想に浸ってから、午後3時に東京ドームに着くと、Tシャツとパンフレットを買って公演の看板の下で記念写真を撮った。

午後5時の開場とともに入場し、ぐるりと場内を一周した。

そして、アリーナ席へと歩を進め、「その瞬間」を待った。

遂に客電が落ちた。

『スタート・ミー・アップ』のイントロ・リフが鳴る、

キース・リチャーズが数十メートル先に居た。

そこへ、ミック・ジャガーが登場した。

(え? めちゃめちゃ緊張してる!)

これが第一印象であった。

それからは、目の前の、というか、今、自分の網膜に映っている映像が「現実」なのか「ヴァーチャル」なのか分からなくなってきた。

そこからの記憶は一切無い。全く無い。

完全に放心状態である。

「23年間」の人生うちの「約半分」を捧げてきた「神の中の神」を、遂に生で観てしまったのである。

嬉しいとか、ノリノリとか、感動とか、そんな細かい感情のヒダは吹っ飛んでいた。

翌朝、武蔵境のアパートで目覚めた。

私は驚いた。

「世の中が灰色に見える」のである。

布団の中から出る気力もない。

完全に急性の「鬱」の状態になっていた。

つまり、
「人生を賭けていた相手と出会う」という「究極の夢」が実現してしまったため、「人生の目標を失ってしまった」のだ。

まったく無気力のまま、なんとか身体を起こすと、この喪失感に相応しいことをやろう、となんとなく思った。

そして、ふらふらと武蔵境駅前のパチンコ屋に入ってパチンコを打った。

生まれて初めてのパチンコである。

千円くらい打って店の外に出て空を見上げると、
どんよりとした冬の曇天が目に入ってきた。

相変わらずまったく身体に力は入らず、
眼前にはただただ「無情の世界」が広がっていた、、、

1990年2月15日のことである。

(完)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?