建築と格闘と純性。「範馬勇次郎と近代建築、そしてミース」
チェコはブルノにある「チューゲンダット邸」、
「神様仏様ミース様」の設計である。
強烈なトリップ力を持つ地上最強の建築の一つである。
出来ることならこの圧倒的な「美の結晶」の中で一生を終えたい。
この建築のリビングルームのミースがデザインした「バルセロナ・チェアー」に座り、
片手にブランデーグラス、もう片手で猫を撫でながら、ブルノの街を眺めつつ静かに息を引き取るのだ。
この建築の全てが「美しい」。
この建築を見終えた後に外の世界に出てぐるりと周りを見回せば、世の中の人工物が全てブカブカのユルユルのバッチイものにしか見えなくなってしまう。
そして完璧な「美」とは限りなく狂気に近い。
全てが統合された一部の隙も無い「美」の結晶体の中で、己の「視覚」「触覚」「空間認識」の感覚が、この建築にチューニングされてしまうのだ。
そして「自分が建築化」される倒錯的快楽。
すなわち「近代建築」とは近代のテクノロジーを駆使した「快楽マシーン」であると改めて確信するのである。
建築における「社会性」とか「公共性」とか「経済性」とか、、、
それらは範馬勇次郎の思想における建築の「純性を損なう不純物」にカテゴライズされるであろう。
これを逆説的に捉えると
快楽も、純性も、人類の豊かさ、建築の普遍性に資するので、大変に地球にも優しいということになる。
人間は苦痛には耐えられるが、快楽には抵抗できない。
つまるところ、建築とは存在の大前提として「美しく」あらねばならないのである。
そして、
範馬勇次郎先生が「範馬勇次郎の型」を完璧に演ずるように、
ミース先生が「ミース・ファン・デル・ローエの型」を完璧に演じたのが
この建築、「チューゲンダット邸」なのである。
そう考えると、大理石壁のシンメトリー模様が鬼の形相(オーガ)に見えてこないだろうか?
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