解離性障害・複雑性PTSDになった経緯
私の過去とトラウマ体験
まずは私の自己紹介から始めたいと思います。私には高機能広汎性発達障害があり、そして、解離性障害、複雑性PTSDという二次障害もあります。
今までに17回の入退院歴があります。
15歳から23歳になるまで数年の間を開ける時期もありましたが、10代の頃はほとんど高校にも行けず、17歳の誕生日も病棟で迎えました。
17歳のときの記憶は全くと言っていいほどありません。
私の家は母子家庭です。父は私が3ヶ月になる頃に家を出て行き、そのまま、母と離婚しました。
保育園時代の虐待とトラウマ
離婚した後、当時の母はまだ若く私が薬を苦くて吐き出したときに思い切り叩いてよろめいた私が台所の流し台に当たって歯が折れたこともありました。
今でもそのときの記憶は鮮明に覚えています。
当時の私は無認可の保育所に通っていましたが、そこでも理解のない先生に叩かれたり、蹴られたりして、そのときの心の傷が解離性障害の発症の引き金になったのかもしれません。裾野市であったような児童虐待を受けていた、と今では思っています。
小学校での激しいいじめとトラウマ
小学校に入学したら真っ先にいじめが始まりました。
蹴とばされて背中を踏まれ、足を引っ張られ、校内中で見せしめにあったり、六年生からみんながいる前でズボンを脱がされたり、毎日のように叩かれ、鉛筆を壊されたり、私は何も悪くないのに先生から頬を一方的に殴られたりしました。
高学年になると身体的な暴力を受けることは減ったものの、クラスみんなから無視をされたり、因縁をつけられ、信憑性に乏しい噂を一方的に流されたり、溝に突き落とされ、手に大けがをしたり、クラス全員と喧嘩したこともありました。
いじめに耐えられなくなった私は、6年生のときにとある山奥の地域(西都市銀鏡地区)に山村留学をする決意をしました。
いじめから逃げて。山村留学時代のトラウマ
それで陰口を叩く人もいましたが勉強できる私にとっては関係ありませんでした。ただ山村留学先の里親と担任の先生が最悪な人でした。
里親さんの家には当時三年生の女のお子さんがいました。
里親さんは体罰を容認していました。
私にはさすがにされなかったのですが、怒られると里親さんのお子さんがサバイバルナイフで脅されたり、木刀で頭や背中を叩かれたり、一晩中外に放り出された挙句に川の底に沈められ、時にはサバイバルナイフで刺されたこともあった、とその女の子は笑いながら言っていました。
私も冗談だろう、と思っていると夏休みのある日その女の子は両親の機嫌を損ね、木刀で叩かれ、泣き叫ぶのを私は耳を抑えて聞いていました。
サバイバルナイフで膝をこすると血が止まらないんだよ、とその子がにこやかに言っていたときの光景が今でも忘れられません。
私も直接的な体罰はなくても食後3時間、叱責されるのは当たり前になっていました。
その頃から私は自傷行為が始まりました。
なぜ、そうなったかというと帰省していた女の子のお姉さんから、反省があるならば自分で頭を叩け、と言われたからです。
自分を反省するために頭を叩き、毛を抜く、カッターナイフで手を切ったこともありました。
あれは虐待だったのか? そうだった。虐待だったんだ。
虐待された子供は自分を責めるといいます。
ニュースで虐待された子供の話を聞くとふとあの頃の自分やその女の子を思い出すのです。
学校でも担任の先生は、体育の時間に襲われたときの防御の練習をしようというのです。
幸い私はその場を回避しましたが今、思えばとんでもない人です。
複式学級の授業中にも、私が性的に可愛くないなど時には凶悪犯罪の話をし、教師としてありえない発言をしていました。
私の症状に気付いた校長先生の勧めで、受診したのはそれからまもなくでした。
知能検査を受けてみると言語理解が138、トータルで124という数字をもらい、状況を鑑みて中学受験を勧められました。
発達障害への誹謗中傷が原因で解離性障害・複雑性PTSD発症
その間もなく診断結果を知らないはずの里親から「発達障害の人はあの神戸少年事件の犯人が発達障害だったからお前も人を殺すから出ていけ、自殺してもいいがうちで首を吊ることはやめてくれ」と言われました。
恐怖で私の心はボロボロでした。
暴言を吐きながらも、その里親さんから子供の頃に壮絶な虐待を受けていた、と泣きながら告白されました。
だから、私はその里親さんをもう、憎んではいません。
今、思えば、虐待の連鎖だったのでしょう。
そのお子さんも事情を知っていたので、お母さんである里親さんを庇っていました。
神戸児童連続殺傷事件の犯人と同じだ、と中傷されて。
その担任の先生のように性的に異常な大人は一定数いる、と私は身をもって知っているので、フラワーデモや性被害告発の件については、反発はしながらもどこかで、自分も同じような目に遭ったのではないか、と思うのです。
そんな状況にもかかわらず、中学受験では特待生として合格し、卒業式のときに、その担任の先生からその神戸事件の犯人と私が親戚だと罵り、挙句の果てには、加害者家族を差別して何が悪いと言いました。
そもそも、私はその元少年Aとは全く関わりもないですし、それなのになぜ、と思うと理由がありました。
授業で自分史をやった際に私が男の子だったら名づけられた名前の候補にその元少年Aの本名があったらしく、先生は大きな勘違いをしていたのです。
唯一、輝いていたように見えた中学時代
進学した日本大学付属の私立中では成績もトップクラスで部活動にも励み、私の人生の中で一番輝いていたかもしれません。 中学3年のときに不意にその少年犯罪のことを思い出したのです。
本当に少し調べるだけでした。図書館である本を手に取ると、急に視界が真っ暗になったような気がしました。その本に書かれていることは想像も絶するほど悪意と憎悪に満ちていました。
その日から私の人生は変わりました。毎日のように図書館や本屋に行って欠かさず本をチェックしました。ネットの方も調べました。だんだん生きていく気力も減っていきました。
フラッシュバックに何度も襲われ、里親に言われた誹謗中傷の恐怖を思い出しました。今度は偏見や誹謗中傷を言われても傷つかないように先に知っておけば、きっとまた傷つかずには済む。
そんな思いから調べ始めて高校に入学した直後、限界に達しました。
高校時代の教育虐待と偏見・誹謗中傷
成績も担任の先生からはこのままならば、九州大学の合格範囲で頑張れば京都大学や東京大学の合格も夢ではない、と言われました。
そんな状況でも学校の勉強は続けていたのです。
私は高校に往復3時間かけて通っていたのですが、宿題の量も平日に難問ばかり集めたプリントを10枚も出したり、仮定法まで高校1年の7月で進めたりと無理があったと思います。
部活動も禁止されていた高校生活で、とうとう学校に行けなくなり、同じ学校の芸術学科に転科しました。
芸術学科の先生から「あなたが文学を含む芸術をやると冒瀆になる。十月になるまで自主退学しないと強制退学させる。これを言われたからと言って屋上から飛び降りるのは、我が高校のブランドに傷をつけるから死ぬのならばやめた後に死んでくれ」と言われました。
それでも、私は何とか、学校に行こうと文芸部の入部を希望しました。
体験入部の日に顧問の先生から、
「あなたほど才能がない人は初めて見た。入部するのがおこがましい。もし、入部しても日大文芸コンクールには連れて行かない」と言われました。
私は「連れて行かなくてもいいから入部できないか」と言うとその顧問の先生は芸術学科の先生と同じように私が文学に携わると冒瀆になると言いました。
高校を転科・転校、たらいまわしにされた10代
そこまで言われた私は母に言って河合塾の高卒認定コースに行きたい、と頼みましたが、母から無理と言われ、大分竹田市にある、不登校の生徒を受け入れるある私立高校に転校しました。
今思えば、河合塾と通信制高校に行きながら勉強していた方がよほど良かったと思います。
その間にも私は閉鎖病棟に2回も入院しています。入院先から高校に通っていたのです。その高校はほとんど授業をしない学校でした。
最初の説明では地元の宮崎大学進学レベルの授業ならば、行えるという説明でした。
当時の私は宮崎大学の教育学部の特別支援教育課程を志望していましたので、入試に必要な科目を受けられるとばかり思っていました。
不登校支援の高校からの裏切り
まず、転校してから驚いたのは英語でした。そもそもアルファベットも書けない生徒がいるからか、中学生レベルの英語の授業もやらないのです。
英会話とも言えぬ高校で習う英文法を教えない授業スタイルでした。
英語は授業をやらず、その他の科目も似たようなものでした。国語も古文や漢文はやりません。現代文もそもそも、小学生レベルの漢字が読めない生徒がたくさんいるのですから無理はありません。
理科も生物や化学、物理なんてとんでもない。やっても薄い教科書で理科総合Bをやるようなものです。
文系なので生物が必要だった私には、遺伝などを習いたかったのにも関わらず、一切教えてもらいませんでした。世界史や日本史などの科目もそもそも、カリキュラムに入っていませんでした。
独学で高校範囲を履修
こうなっては独学でやるしかありません。
入試に必要な日本史は戦国時代まではひとりでやり、古文は中学の時に文法はマスターしていたのでひとりで問題集を開いたり、英語もチャート式の問題をひとりで解いたりしていました。
仮定法の疑問点を英語の先生に聞きにいったら、代わりに中1レベルの問題を渡されたときは、さすがに驚きました。
レベルの低い学校で唯一教えてくれたのは数学の先生でした。
その数学の先生には今でも唯一感謝しています。
その先生は広島大学の大学院卒で、しかも、国立の原子力機構に勤務されていた過去のある先生でした。
数学だけが勉強できた、東日本大震災の募金活動
その底辺校ではずっと、数学の勉強をしていました。
今でも数学の問題集を見ると、あのときに解離で覚えていないはずなのに懐かしさがこみ上げます。
数学Aから数学Ⅱの三角関数までひとりでやりました。
わざわざ、教科書も買ってやりました。その頃も結局は解離が悪化して、何度目かの入院をしていたのですがその病棟でも朝早くから数学の勉強をやっていました。
その高校では数年ぶりに全国模試を受験することになりましたが、その結果も数学だけは、全国平均を大幅に上回っていたと聞いています。
全然勉強ができない生徒でも教え方次第でやれるようになるんです。あのとき、ちょうど東日本大震災が発生してその直後にみんなで募金活動をして小さな学校ながら10万円の寄付が集まったのは覚えています。
その高校では募金と数学だけがいい思い出です。それも長くは続きませんでした。
その年の6月に体育の先生から「お前たちは人生終わった」と罵り、それに憤慨した男子生徒から私に「自分が頭いいと奢っている、お前も俺たちと同じなんだよ」と言われ、そこからまた嘘みたいに行けなくなりました。
そこからたぶん4回目の入院生活が始まったと思います。
17歳の誕生日を入院病棟で迎えたときは、周りの看護師さんや母が涙を流していても、私自身はそんなに感慨もなく、受験が不可能になったことに気落ちしていました。
夢の中にいるみたい 解離性障害・複雑性PTSDの診断
入退院を繰り返しても何も変わらず、数学の勉強だけは進んだけれどもこの頃の記憶は全くありません。
ちょうどその頃、私が主治医に「夢の中にいるみたい」と何気なく言った一言で主治医の顔色は変わりました。
解離性障害の診断を初めてもらったときは驚きもなく、本を読んでもそこに今の自分の状況が書いてあるだけでした。
処方される薬も十種類まで増え、15歳から17歳までの記憶はかろうじて覚えているだけです。
自殺者が出た不登校支援高校 高校中退をさせられた青春
その頃、その高校では自殺者が出ました。
それを母から聞いたとき、もうやめよう、と母から言いました。
ほとんど高校二年生では行ってはいませんでしたが、私が独学でやっていた成果のおかげで何とか、辞める際も単位としてその数学の先生が奔走して学校側に認めさせてくれました。
17歳の5月、高校を中途退学しました。不思議なことに自分が可哀想だとか、不憫だとか、少しも思わないのです。それよりも少年犯罪の偏見のほうが、自分の中では大きく締めていたからです。
記憶が途切れ途切れの中、本来ならば高校を卒業したはずの18歳の春に病院からの帰りにNHK学園高校に入りなおせないか、と母に提案しました。
NHK学園高校の温かい手
母はそのときNHK学園高校の存在は初めて知ったようで大急ぎでパンフレットを請求し、願書を書いて送ったところ、晴れて私は高校3年生になりました。 独学は慣れていたので通信制高校の課題も苦にはなりませんでした。
一つも単位を落とすことなく無事一年後卒業できました。それから、私は念願の河合塾の高卒認定コースに入りました。最初の頃は良かったのですが、途中書店で少年犯罪の新書を見て急にまたふと行けなくなりました。
私のような苦しみを代弁してくれるような本は1冊もありませんでした。
私立大学通信教育部の退学勧告
河合塾をやめた後、いいこともありました。太宰治賞に応募し、二次通過まで残ったのです。その後も群像新人文学賞に一次通過まで残り、自信が少しはつけました。
その頃には私立大学の通信制大学に入学していたのですがスクーリング会場でパニック発作を起こし、大学側からやめるように言われました。
大学退学も、思考の整理学エッセイ賞を受賞
提出していたレポートの日付に不備があり、それを指摘すると大学側は逆切れされ、強制的に辞めさせられたのです。法政大学を辞めさせられてから、わずか3年後、私は筑摩書房主催の『思考の整理学エッセイ賞』で優秀賞を受賞しました。
筑摩書房 東大・京大生が根強く支持する異例のロングセラー 思考の整理学 外山滋比古 (chikumashobo.co.jp)
またそれから何度目かの入院生活が始まりました。
結局、今まで入院を17回もしました。必死になって独学で勉強しても報われない、そんなつらい日々の中で最後の入院のときに母から暇だったら手軽にできる俳句や短歌をやってみたら、と言われ、やってみることにしました。
徐々に出てきた苦労の結果
オール読物の短歌・俳句の部屋に掲載されたり、角川短歌の読者歌壇や歌壇の読者歌壇に特選になったり、一年後、角川短歌年鑑でBEST20人の3位に選ばれたりしました。
なかなか、結果が出なかった小説のほうでも地元の文学賞に佳作で入選し、翌年には九州芸術祭文学賞で奨励賞、次年に二席を受賞しました。
ラグーナ出版との出会い
ラグーナ出版との出会いはちょうどそんな頃です。
鹿児島の出版・印刷物デザイン ラグーナ出版 |精神患者向け 就労継続支援A型・自立支援 (lagunapublishing.co.jp)
たまたま図書館で借りてきた雑誌、『ソトコト』にラグーナ出版のことが掲載され、大急ぎで連絡するとすぐに川畑社長と会うことになりました。
sotokoto online(ソトコトオンライン) - 未来をつくるSDGsマガジン (sotokoto-online.jp)
川畑社長は今までの私の話を親密に聞いてくださりました。
EMDRの体験記
ラグーナとの出会いは一生ものだと思います。今まで大変な目にしか遭わなかったけれども、ようやく春の陽射しが舞い込んだと思います。私は現在、主治医の下で、トラウマ治療の『EMDR』を受けています。近日、光トポグラフィー検査を駆使した、EMDRの体験記をアップします。
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