マガジンのカバー画像

雑記

238
運営しているクリエイター

#社会科学

社会科学の非科学性とその飼い慣らし方

市場における自然価格については、社会科学的な分析が可能なのかもしれない、ということを書いた。それにはやはり条件があり、同一の財について複数の供給者がいて、市場が独占状態にならないことが必要になる。これが、社会を科学するのに非常に難しいところであり、物理学ならば、一定性質の複数の物質が所与で存在するということを前提とすることができるが、社会では人間の性質を固定するのが難しいために、その前提を打ち立て

もっとみる

社会は科学しうるのか – 非科学性の権化 権力の魔力

自然科学においては、自然を観察した結果から帰納的にその理屈を導き出すが、社会科学においては逆に現状の観察から自らの理想像、あるいは意志のベクトルに向けて自然にたどり着くように演繹的に理屈を導きだすことなのではないだろうか。意志のベクトルと書いたが、実はこれが科学と呼べるのか否かの一つの大きな分岐点であるともいえそう。意志を押し付ける力、つまり権力を持ってしまえば、それを用いて社会をある程度自由にで

もっとみる

社会科学と数学 ー 物理学的に直線は存在しうるのか?

数式を線形モデルで表して直感的に理解しやすくする数学的な座標軸であるが、果たして直線というのは存在しうるのか、という疑問に突き当たってしまった。

物理学的観察に基けば、光は粒子と波の性質を併せ持つという。波長によって波の幅が異なり、その複合体の光によって直線を観察した時、果たしてその直線は直線であるといえるのだろうか。原点の性質が一定しない時に、直線は何をもって直線だといえるのか。それは直線であ

もっとみる

社会を科学化するインセンティブチェーン

対話が駆け引き化すると、直接需給を調整するよりも、互いに相手に向けてなんらかのインセンティブを供給し、それによってゼロサムゲームを防ぐようになる。そのインセンティブは、仮の構造を作り、その中の一部をパーツとして相手に供給することで自分の構造の発展強化を図るというものであるといえる。それは、既に資産を持つものにとっては非常に有効な手法だが、自分に不足するものを得たいものにとっては、いつまで経っても自

もっとみる

地動説というけれど

コペルニクス的転回によって、天動説は地動説に取って代わられ、それは常識となっている。人間が地球の動きから逃れることができないときに、地動説というのは実感とはそぐわないが、天の動きを詳細に見るとそういう結論に至らざるを得なくなる。

とは言っても、例えば風速のようなものは地面は静止しているものとして、そことの速さの違いによって測ることになり、地動説はとっていない。速さというもの自体、地面が動いている

もっとみる

相対性理論の作り出す経済社会、そして科学と宗教

相対性理論は、結局のところ時間と距離との関係性だと理解しているのだが、本当にそれですべての物理現象を説明し切れるのだろうか。これは素朴な疑問なので、説明の範囲内なのかもしれないのだが、てこの原理というものがあり、支点からの距離の違いによって力が変わる、というものだと理解しているが、それは相対性理論的に説明可能なのだろうか。光の速さを絶対とし、重力の広がりもその速さと関連づけていることで空間上の事象

もっとみる

科学の終焉

近代化は科学の発展によって成し遂げられてきたともいえるが、いまやそれが限界を迎えているのではないかと感じられる。近代化の萌芽は、デカルトによる自我の発見とその方法論の公式化から起こったと言っても良いかもしれないが、結局その下での近代化はデカルトの方法論を踏まえての一般化、というプロセスを辿っているに過ぎないのかもしれず、デカルトを相対化して個別の懐疑の違いを考える、というところには至っていなかった

もっとみる

社会科学とヘーゲル的弁証法

人というものがDNA鑑定により、具体的な父親と母親を特定することができるようになったことまで書いた。そこから社会を科学するためにはどうしたら良いか。父と母というのは全くの別人格であり、その二人から全てを取り入れて自分を成立させるわけにはいかない。どこかで父とはここが合ってここが合わない、とか、母とはここは似ているがここは違っている、とかそういうことが出てくる。自己の人格形成とは、これらのことについ

もっとみる
主観と客観、そしてEBPM

主観と客観、そしてEBPM

ユークリッド空間が一般化された無限次元での数学的応用を可能にするヒルベルト空間において、空間のある座標にあるものが自己から放出されるベクトルの距離を測定できるのか、という問題があり、それは別の座標から観察しないと測定できないだろうし、しかもそれは座標の位置によって距離が違って見える可能性もある。その時に、果たして客観というものに意味はあるのだろうか?それは、常にある主観に対する第三者の主観的計測に

もっとみる