社会科学の非科学性とその飼い慣らし方

市場における自然価格については、社会科学的な分析が可能なのかもしれない、ということを書いた。それにはやはり条件があり、同一の財について複数の供給者がいて、市場が独占状態にならないことが必要になる。これが、社会を科学するのに非常に難しいところであり、物理学ならば、一定性質の複数の物質が所与で存在するということを前提とすることができるが、社会では人間の性質を固定するのが難しいために、その前提を打ち立てることが難しいということがある。現実問題として、物理学において性質の異なる物質の比率が違うところで同じ物理法則が適用されるか、と言えばそんなことはない訳で、例えば空気がある状態と真空状態では物の動き方は異なってくる。それは、観察によってそれぞれの法則性が明らかになるのであって、人がこうだと言ったからそうなるという類のものではない。

権力を用いた社会的自然科学実験

一方で、社会においては、さまざまな要素が人間行動に反映され、それが社会の動きに反映される。特に、市場での独占力を含んだ権力は、社会を恣意的に動かすことができるという意味で、非常に非物理的、非自然科学的な要素であると言える。それは、社会を科学しにくくする大きな要素であったと言えるが、現代社会においては、むしろ権力と物質配合のようなものを絡めることで、権力と自然加工を結びつけてどこまでできるのか、という実験が行われているようにも感じ、それは特に原子力開発に応用されているのではないかと感じている。権力行使を自然に組み込んで自然を社会に従属させるという試みは、私に言わせればまさに天に唾するような行為であり、そんな悪魔のような実験は直視できないし、関与もしたくはない。私の原子力開発に対する本能的な嫌悪感というのはそこから来ているのではないかと感じるが、それは人にとっての一般的な感覚ではないのだろうか。

絶対的自由が必須の社会の科学性

いずれにしても、私にとっては、社会科学とは、権力を用いずに自らの意志を社会の中に反映させるための手段、あるいは思考様式と定義できるのかもしれない。権力によって増幅された力は、自然として観察できる対象とはならない。社会を自然状態のように科学するには、人の、権力からの絶対的な自由を前提としなければ、権力によって恣意的に動かされることが科学として正当化されてしまう。そのような状態は私には耐え難いものであり、権力の関わるものは、私は科学とは認められない。その意味で、革命を所与としたマルクスも、財政・金融政策を正当化したケインズも、私にとっては科学とは言い難い。だから、ケインズ以降の計量化が進んだ経済学は、私にとっては全く科学ではない。

天然市場メカニズムの科学性と現代におけるその不可能性

本来的には、それほどまでに政府の力が大きくなかった時代にスミスが観察した様に、市場メカニズムは政策介入がなくても、いや、それがないほど純粋科学的に作用するものだと考えられるが、一旦ビルトインされてしまった政策の影響力を排除しうるのか、ということは非常に怪しく、ましてや主として組織による市場の独占力あるいはそこまで行かなくても価格の決定権を排除するというのはもはや不可能なのかもしれない。その意味では、天然の、より純粋科学的に作用していたであろう市場メカニズムを再現することは非常に難しく、天然の市場メカニズムはもはや絶滅してしまったと言えるのかもしれない。一方で、政策は権力によって定められるので、常に権力者、あるいは権力闘争の結果としての権力均衡による非科学性を伴うことになる。それは、政策、すなわちそれを定め、施行する権力の力が大きくなればなるほどに非科学的になってゆく。つまり、権力が情報を集め、自らにとって科学的であると見える環境を整えれば整えるほどに、情報の偏在から他の人々にとっての近似科学性が強まることになり、その情報、ひいては科学的知見の偏在性はそれ自体全く科学的ではない、ということが言えるのだろう。

社会の科学化に伴う非科学化という矛盾

この様に、社会は情報を集めて科学しようとすればするほど、自然の観察による部分、すなわち多様な解釈に基づく再現性の確保をどんどん排除することになり、皮肉なことにどんどん非科学化していってしまう。つまり、「社会科学」は、科学的に見えるにしても、それは視点の集中によって成し遂げられるものなので、常に近似的で、一面的でしかない、ということが言える。それを考えると、非科学的だとされる根拠なき反対の方が、多様な解釈の中で、一面的な社会”科学”の非科学性を直感的に見破り、表明しているのだと言え、実は科学的主張に対して普遍的ではないから反対なのだという意志表示を行っていることになり、科学のプロトコルにはより忠実な態度であるとも言える。

権力の恣意性がもたらす非科学化

その上で、では「社会科学」と呼ばれるものに、一体何が可能なのか、ということを考えてみたい。社会科学を科学として機能させるためには、多様な解釈が必要であるということになる。情報が定量化されれば、解釈の多様性は限定的となり、物理学的近似科学性は得られるかもしれないが、より自然科学らしいが厳密な意味での再現性には乏しい生物学的な近似科学性は失われる。社会を定量的に科学するのならば、完全な平等、権力の完全均等化という定常状態を目指してのものでなければ、ノイズとしての権力を排除することができず、常に非科学性の方向へ引っ張られることになる。典型的には、経済学的な、資本の最適配分なるものは、最適をどのように定義するかの問題でもあるが、貨幣が権力行使手段であると考えれば、それが完全均等に配分されることを目指して用いられるのでなければ、科学的とはならないのだと言える。それはまた、多数決に基づく民主主義なるものについても同じことが言えるだろう。


社会を科学するには、上述のように、理論的には、貨幣の均等配分を目指した経済学と、多数決的な権力集中を排した均等な意志表示及びその実現を目指した政治学が必要になるのだろう。ただ、前者はともかく、後者を定量的に理論化するのには、それこそ政治的、あるいは社会的にかなり高いハードルが予想される。しかし、権力の均等配分のためには後者の方が遥かに直接的には重要になる訳で、その意味で社会を科学するのはかなり難しいのだろうと考えられる。

社会科学の近似科学性への批判精神から育つ科学的見方

ただ、科学ではあり得ないから、その近似性について議論を行うことができるわけであり、そこに多様な価値観の源泉があるのだとも言える。その謙虚さを持てば、「社会科学」から得られる近似科学性には議論のベースとして非常に重要で有意義な価値があるだろう。しかしながら、その謙虚さを忘れて、権力志向を強めれば、近似科学性の錯覚に麻痺するうちに、どんどん非科学的になってゆくのだろう。科学的であり続けるためには、権力という非科学性の権化が近づいてきたときに、その非科学性をいかに見破り、そしてそれに飲み込まれない様にするのか、という姿勢を崩さない様にする必要があるのだろう。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。