社会科学と数学 ー 物理学的に直線は存在しうるのか?

数式を線形モデルで表して直感的に理解しやすくする数学的な座標軸であるが、果たして直線というのは存在しうるのか、という疑問に突き当たってしまった。

物理学的観察に基けば、光は粒子と波の性質を併せ持つという。波長によって波の幅が異なり、その複合体の光によって直線を観察した時、果たしてその直線は直線であるといえるのだろうか。原点の性質が一定しない時に、直線は何をもって直線だといえるのか。それは直線であると定義したから直線だ、という自己言及のトートロジーになってしまうのではないか。

さて、物理学的に直線が観察し得ないとすると、果たして合理主義というものは物理的に可能なのであろうか。合理主義が線形で表現される時、観察者とはいえない自分でその直線を直線であると定義できるのか。もしそうでなければ、その線が直線であるというのは一体誰が決めるのか。観察者が直線であるといえば直線になるのか。だとしたら、一体どの観察者の判断が優先されるのか。結局合理主義とは「合理」を定義できるものにとっての合理主義であるということになってしまうのではないか。

合理主義に限らず、数学的な社会把握というのは、結局定義の争奪戦となってしまう。定義に納得できないものにとっては、その定義に基づいて行われる数学には何の意味もなくなる。そして、数学的に洗練されればされるほど、言葉は意味を失ってゆく。定義以外の言葉の意味が失われた無味乾燥な世界は、直線を直線だと言い切る自己満足のトートロジーだけが幅を利かせ、そうじゃない、と思っても誰も数学的に反論できないようにガチガチに固められ、たとえ王様が裸であろうと誰もそれを指摘もできない状態になる。

これは、市場とか分業の成り立ちを数学的に説明しうるのか、ということを考えていてたどり着いた結論である。個々人の功利主義的判断によって取引の成立する市場の動作原理はいったいどこにあるのかということで、ナッシュ均衡的に個々人が線形合理性に基づいて損得判断をする時、絶対原点があったら、長期的に市場は成立しうるものなのか。直線と直線は一度しか交わらず、継続的取引市場は成立し得ない。比較可能性のない取引は果たして市場なのであろうか。

一方で、分業はそれぞれが交わらないような切片をもった直線を平行で走らせることで成り立つといえるのだろうか。そうなると、そもそもその分業の始まりはどのように定まるのだろうか。アプリオリに各切片に応じた席があり、そこに座ることで分業システムに乗るということなのだろうか。自然に席ができるメカニズムは作用するのであろうか。数学が動学的世界を表現できないのは、直線というものの定義があまりに現実離れしているためではないのだろうか。

これはつまり、デカルト的な座標軸では動学的な世界は表現し得ない、という決定的な事実なのではないだろうか。少なくとも物理学的な解釈に基けば、球体の光源であれば全方向に向かって粒子であり波でもある光を放出し続けているはずであり、その世界はデカルト的座標軸では表現し得ない。さらに、人というのは1カ所にとどまるわけではなく動き回るわけで、そしてその志向性も幅や強弱に違いがあり、さらに方向転換がありうる。そんな複雑な世界を線形的な数学で表現しうるわけがないのだ。

線形的な合理主義思想によって単純化された数学的モデルに社会を合わせるなどということを推し進めることがいかに愚か極まりないことか。コンピューターのできる計算などというものは、たかだかそんなものだ、という見極めは必要なのだろう。観察者として自分の考えを線形的にまとめるのには役立つが、その答えに合わせて自分を線形化するのはもちろんのこと、他者を線形化して道具として使うなどというのはもってのほかだろう。社会分析のためにコンピューターというのは本質的に向いていないのだと考えるべきだろう。

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