社会は科学しうるのか – 非科学性の権化 権力の魔力

自然科学においては、自然を観察した結果から帰納的にその理屈を導き出すが、社会科学においては逆に現状の観察から自らの理想像、あるいは意志のベクトルに向けて自然にたどり着くように演繹的に理屈を導きだすことなのではないだろうか。意志のベクトルと書いたが、実はこれが科学と呼べるのか否かの一つの大きな分岐点であるともいえそう。意志を押し付ける力、つまり権力を持ってしまえば、それを用いて社会をある程度自由にできてしまい、それによって近似的な科学性を実現し、本人も社会もそれが科学的であるかの様に錯覚してしまう可能性がある。そのメカニズムについて考えてみたい。

自然科学の科学性

まず、自然科学から例を挙げて見てみると、原子力開発というのは、理屈でこうなるはずだからこうする、という演繹的な手法をとっており、それはすでに自然科学的な手法とは言い難い。素粒子などに関しても、予測が先にあり、それを発見するというのが先端科学のトレンドとも言えそうだが、それは観察に先んじて予測といえば聞こえが良いが先入観があるわけで、それを自然の観察と呼べるのか、というのはかなり怪しい。そして、観察されたものも、特別な機器を用いて、それを使える人にしか見えないという、普遍的な再現性にはかなり疑問符がつくものであり、それを科学と呼んで良いものなのか、というのは疑わしいと言わざるを得ない。相対性理論にしろ、量子力学にしろ、それらは普遍的観察は難しいものであり、もはや科学とは呼べないのではないかと感じる。

意志のベクトルによる科学性の偽装

このように、自然科学において、意志のベクトルというのは、科学的装いをいわば押し付けるために用いられている部分があるのではないかと感じる。つまり、科学的であると主張すれば、反論を封じ込めやすい、という、葵の御紋的な全く非科学的な用途に、「科学的」という言葉が使われているのではないだろうか。例えば、原子力の安全性というのは科学的に証明可能なのだろうか。一体何が安全であると誰が定義し、そしてそれが普遍的であるとどのように証明できるのであろうか。科学の範囲はもう少し厳密に定める必要があるのではないだろうか。

社会は科学できるのか?

さて、話が少しずれたが、そうした観点から考えて、果たして社会は科学しうるのだろうか。社会認識が普遍的であるか否かというのは瞬間的には定まらず、つまり、新たな認識は常に普遍的ではあり得ない、ということになる。そして社会は常に流動的で、同じ認識を再現可能な形で固定することはまずできない。そうなると、社会については普遍的観察に基づく一般法則を導き出すという科学の基準は満たさない。そこで、特に経済学においては、統計データを基準にしてそこから普遍的法則を導き出そうとするが、統計データ自体、ある基準に沿って分類され、整理されたものであり、それを無条件で普遍的観察結果であると考えることは非常に難しい。実際、時系列を追っている統計でも、その統計の基準はその時々において変化するわけであり、それが普遍的な観察結果なのか、というのは、科学を厳密に定義した場合には、難しい、ということになる。つまり、社会を厳密に科学することはほぼ不可能に近い、という現実的な限界があるということはまず押さえておくべきことだろう。

錯誤によって成り立つ社会科学

それを考えた時、社会科学においては、現状観察から理想像に至るまで、結局全てが主観であり、そもそもそれを科学であると主張すること自体が非常に傲慢な姿勢であると言える。その中で、さまざまな問題があるとはいえ、民主主義において支持が広がるということは、その主観が次第に普遍化していることだともいえ、そのプロセスが、もちろん近似的にではあるが科学的なのだともいえそう。同じような近似的科学性を示すものとして、市場原理というのも当てはまるのではあろう。支持が広がれば顧客が増えるということで、それが科学的なプロセスに近似しているのだと言える。つまり、社会科学とは、ある社会観察からその問題解決に至るプロセスが科学的であると錯誤させるための手法であるといえそうだ。すなわち、社会科学は常に錯誤であり、そのプロセスの科学性については常に検証されないと宗教化する危険があるのだと言える。そして、社会に直接影響力を及ぼす権力を握ることによって、その近似科学性の錯誤を一手に引き受け、さらに権力を強めるというサイクルが、この宗教化のリスクをさらに高めることになる。

市場原理の科学性

まず、市場原理についてみてみると、その科学性を担保するのは客観的計測単位である貨幣となる。そのとき、貨幣の動きの観察である経済的分析については科学的なのかもしれないが、そのほかの要素、環境であるとか、平等性であるとか、そう言ったことについて科学性が認められるか、といえばそんなことはない。そして、金融政策というのは、その貨幣の動きに直接影響を与え、それを管理しようとする。それは、自然科学で言えば、自然を人の力で抑え込もうとするものであり、例えれば、ダムを作れば水の流れは管理できる様になるかもしれないが、そこで失われるダム湖に沈む範囲の生態系であるとか、その環境負荷の様なものは考慮されない、というのと同じ様なものだと言える、ダムならば一旦作ればその放水量を調整するくらいしか追加の環境への影響は発生しないが、最も市場原理が理論化されているとも言える金融市場では、金融政策によって貨幣の動きは経済環境に直接作用する、つまり、太陽の温度を毎日調整する様なことをやっているのだと言える。その様に管理された貨幣の動きによって、ようやくその科学性が保たれる世界で成り立っているのが市場原理の科学性だと言える。この科学性に従えば、文字通りというか、論理的トートロジーというか、おかしな言い方になるが、政府(実務的には中央銀行であるが)によって管理された市場における近似”科学性”を突き詰めようとすると、その近似性を担保している政府の行動、すなわち政策に従って動くことが、その再現性を高めることになる。

民主主義の科学性

その政策決定において近似科学性を担保する民主主義においては、支持の広がりが自然な形で行われ、自然に観察されれば、その近似科学性はそれなりにうまく働くかもしれないが、現実政治はそんなものではあり得ない。政策決定は、常に誰が主導権を握るのかの権力闘争であり、そしてその政策のなかに自らの意志をどれだけ反映させるかが政治家の実力として評価されることになるので、政策決定における権力闘争の色彩はどんどん強まることになる。政治における政策決定プロセスが権力闘争で行われる場合、そこには常に非科学的要素が入り込むわけで、その意味で、生まれた政策は常に宗教的色彩をおびる、ということを意味する。それがひどくなると、一旦定まった政策は責任者が責任を取るまでは修正が効かず、進めるところまで進まないといけないという、異常なまでの非科学性が認められるようにすらなってゆく。民主主義制度の中でもとりわけ代表制間接民主主義というのは、人気投票的選挙によって自らの実力を多くに認めさせた方が評価される仕組みであり、すなわち権力志向を競うことで政治を動かすという、民主主義の中でも特に権力志向性に依存した仕組みであると言え、その意味で、最も非科学的な民主制度だとも言えそう。

近似性を偽装する権力の力

この様に、近似科学性を示す市場原理と民主主義の仕組みで、競争や選挙によって意志のベクトルが増幅されることで、その近似性は権力に濃縮されてゆくことになる。意志のベクトルは主観であり、それは当然客観性に歪みをもたらす。つまり、意志のベクトルが増幅されればされるほどに社会の動きにおける科学との近似性はどんどん弱まることになる。社会をできる限り近似科学的に観察するのならば、権力をなるべく小さく止め、そのためには人の行動を少なくとも単一の意志のベクトルに集約させるのを避ける必要があるのだろう。

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