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dajale
2024年7月1日 22:58
こと自由意志に関して、現代の有名な議論はほとんど、表層意識における意志のみに焦点が当てられた。しかし、哲学史にはさすがに別の自由意志についての議論がある。阿頼耶識や潜在意識の自由、換言すれば、魂の自由、精神の自由である。この自由は重要で、この自由も身体性に依拠するところはあるが、それよりも遥かに広大無辺な領域を有している。私は何よりこの自由について考えたい。神経がどうたらこうたら、と言う前にま
2023年8月17日 15:48
私たちはいつも夢中をいる。夢中というのは私たちの形相、すなわちエイドスのことである。人間は夢の中から起こすことが出来る。つまり人間は形相の内から起つことが出来る。 形相というのは、イデアから批判を経て生まれたものなので、観念的である。しかし形相というのは、人間だけが持つものではない。人間より前から形相は在る。元々、椅子には椅子の、机には机の形相というものが考えられるように出来ていた。むしろ物
2023年8月10日 10:37
テクストを紡ぐ、という。紡ぐのは糸であるが、糸というのは超弦理論でいう、弦や紐と呼ばれるものだろう。世界を構成する最小単位、究極の単位は糸なのである。この糸というのは ~ こう表すことが出来、これは揺らぎであり、気分の形相を持つ。この情動を私たちは紡ぎ、織りなし、布を作る。布は衣になる。或いは布団になるし、或いはカーテンになる。これらに共通する述語は、包むということである。衣も布団も身を包み、カ
2023年8月9日 15:51
直感というのは、働きをそのまま知るということである。それはエネルギーを感じることでもあるし、換言すれば気を感じることでもある。~の気がする、というのは全て、直感的認識に基づいている。例えば赤色の花は私たちに何事かを表現している。青い空も私たちに何事かを表現していると言えるだろう。何かが私たちに表現しているということは、私たちにそう働きかけているということである。この働きかけは述語的なものである。
2023年8月8日 11:52
意味の形態には、物質の形態と同様、三つの形態があると前述した。三つの形態は、気体、液体、固体に照応する。それはマクロな観点でいくと、空、海、大地に照応する。さらにこれは、井筒の意識の構造モデルと照応する。阿頼耶識は空、中間領域は海、表層意識は大地である。しかし、これをもっと厳密に考えれば、阿頼耶識は空ではなく、宙である。宇宙的な場からエネルギーが出て、そのエネルギーが海に移り、それはやがて泡沫に
2023年7月20日 14:48
エネルギーは意味の形相だと言って良い。物質の取り得る形態、気体、液体、個体、これらがマクロな領域で顕現したもの、それが空、海、大地である。空と海と大地は、物質の取り得る三つの形態の象徴的なものと言って良い。 物質というのは、エネルギーの一形態であるのだが、エネルギーの一形態であるが故、エネルギーが物質に転化したとしても、エネルギーが消えるわけではない。エネルギーはいわば潜在的に存在している
2023年6月8日 14:56
Discordで知り合った、すっぺらこっぺらさんというHNの方の考えを参考にしたのだが、意味の可能態の世界と、その現実態の世界とを、沸々と煮え滾るお湯に喩えられるかもしれない。沸々と煮え滾るお湯は、その中に揺らぎを持っていて、それが意味の可能態になる。そしてお湯の泡沫が現実態である。この比喩は正しく、可能態の揺らぎを作っているのは、熱によるエネルギーなのだ。そしてそのエネルギーが上昇し終えた時、
2023年3月21日 14:51
直感が触れている融通無礙な場に、形而上的なもの全てが含蓄されているのではないか。融通無礙な場における最もシンプルな形式は、揺らぎである。揺らぎを波としてみてもいい。この波が働き合うことによって、融通無礙な場は融通無礙な場足り得る。阿頼耶識における元型とは、反復し固定化された波の働き合いである。元型は未だ具体的な事物ではないのだから、それは述語的な側面から考えられるべきである。述語的な側面とは、波
2023年2月9日 15:01
死とは抑圧である。それは可能態の方に抑圧することである。或いは可能態へ還ることである。魂が死なないのは、存在するものがいくら消え去ろうと、それは可能態へ還る、という意味に過ぎないからである。可能態の領野は融通無礙である。そこでは他者や自己にはっきりした境界線がない。エヴァンゲリヲンで人類補完計画を企てた碇ゲンドウは、可能態の方へ行き、一つになることで唯に会おうとした。これはこれで一つの理路があり
2023年1月12日 14:57
全存在を心的なものとした場合、現実に起きているものが心の領野であり、潜在的なもの、可能態が魂の領野である。潜在と抑圧は同じ構造を持っている。宇宙が始まる前から、魂は全てのものを潜在的に溜め込んでいた。それは抑圧されていると言ってもいい。換言すれば、全てを呑み込んでいたのであるが、ついにそれは爆発し、現世を表現するに至った。 全ては魂の表現であるなら、自然に美を見出すことも妥当である。表現にはい
2017年5月6日 20:06
ニヤリズムニヒリズムにやける主義いつでもどこでもニヤけること罵倒されようが 暴力を受けようがニヤけるそれがニヤリズム 果ては拷問を受けても恋人を奪われてもニヤけるそれこそがこの世の勝者だとニヤリストは考えるエロいものを見ている時 ニヤリストは出来るだけ気持ち悪い顔でニヤける ニヤリストの真骨頂はそこにある一番のニヤけどころはエロいことを見
2017年5月5日 20:05
「言葉は上手に使ったら 気持ちのそばまで近づけるけれど 同じものにはなれない」BUMPのアリアという曲に出てくる歌詞だけど、言葉じゃなくてもなんでもそうだ。表現というものはなんでもそうだ。絵画にしても音楽にしても。表現というのは何かを何かに写すこと。写す時に移してしまっている。何かから何かを移してしまっている。ずらしがある。ズレがある。世界は鏡に鏡を合わせたようなものだ