「直感の再考」

 直感というのは、働きをそのまま知るということである。それはエネルギーを感じることでもあるし、換言すれば気を感じることでもある。~の気がする、というのは全て、直感的認識に基づいている。例えば赤色の花は私たちに何事かを表現している。青い空も私たちに何事かを表現していると言えるだろう。何かが私たちに表現しているということは、私たちにそう働きかけているということである。この働きかけは述語的なものである。すなわち性質や作用、動作などのことである。阿頼耶識は述語的な場である。ただ働きが、顕現もせず、潜在的な働きが蠢いている。直感は阿頼耶識に触れている。

 しかし、直感と言っても、ただ働きかけてくるものを、そのまま受容しているのではない。直感は主体からも働きかけている。客体からの働きかけと、主体からの働きかけが呼応するようにして、直感は成立している。つまり直感には意志が乗っている。ただ阿頼耶識にあるものを直感が受容しているだけなら、直感は無限を感じ続けなければならない。しかし実情そうではないのは、意志が働いていて、直感自体、何に呼応するかということを、予め方向付けているからである。

 直感は述語の論理によって成立するもので、全ての比喩、全ての象徴は、述語の論理から考えられるものであるから、比喩も象徴も、直感的な認識によって成立するのである。直感が阿頼耶識に触れている、というのは換言すれば、直感を通して魂を知るのであり、比喩や象徴にパッションが込められるのは、それが魂の領域から生まれたものだからである。

 直感は印象的なものである。それが善かれ悪しかれ、心に響くものを私たちは直感する。印象的なものというのは、イマージュとほとんど同義である。比喩や象徴というのは、印象から入るのであり、バシュラールがイマージュから詩的な分析を行ったのも、印象とイマージュの同義性によっている。

 ところで、時が流れる、というのはイマージュの表現である。ここでは時が液体のイマージュとして用いられている。しかし私たちは四季というものを知っている。あれは空での出来事である。

 意味の三形態として、気体、液体、固体があったが、時間の意味にも同様のものが見受けられる。阿頼耶識、M領域、表層意識の内、流れるという液体のイマージュがあるのは、M領域であるから、時間が流れるという表現は、M領域での出来事を表現したものだろうと思われる。ただ単に事物が変化するから時間が流れるのではなく、事物が変化すると共に流動するような意味を直感し、私たちは流れるというイマージュを与えたのである。そして阿頼耶識の中の揺らぎ、というよりは、阿頼耶識と共に変化する事物の関係性、その間を直感したので、時間の流れというのはM領域が背景に在る。

 働きの世界というのは、物理的な世界で言えば、エネルギーによって成り立っているが、万物照応しているのであって、エネルギーというものが形而上的には意味として考えられる。潜在的なものと顕在的なものが、物理の世界にもあるのだが、形而上的な世界においても、潜在的なものと顕在的なものがある。ここも重層的になっている。

 面白いのは、クラシック音楽とポップな音楽との違いは、この潜在と顕在にあると言ってよい。ポップな音楽にも歌詞のないものはあるが、歌詞のある音楽というのは、まず言語化という顕在化が為されている。そしてリズミカルなノリの良さ、キャッチーなメロディーなど、晴れた日の空のような、そのままで受け入れられる作りをしている。晴れた日の空のイマージュには、何も隠れたものがない顕在化したものがある。そういった背景で、今やクラシック音楽は難しいとさえ言われるようになった。

 クラシックが難しいのは、それが分かりやすく言語化されておらず、音のみという印象による表現だからで、一応表現はしているのだが、意味としては潜在的なところにある意味なのである。しかし精神科医なんかは、神経が休まるのはロックミュージック等より、クラシックだという人もいる。ロックは神経が昂るような表現の形式であるが、クラシックはその表現の形式が印象の中に留まるのだから、気を休めたい時に聴くなら、やはりクラシックの方が向いているのだろう。しかし精神的な病においては、複雑で多様な主観的認識が、ストレスの元になり得るので、例えばクラシックを退屈だと思えば、それはそれでストレスにはなるのだから、精神科医の言う一面だけではないのが実情だ。

 ところで、この働きの世界、エネルギーの蠢きだけがある世界というのは、エモーショナルな世界である。阿頼耶識は宙の世界である、と前述した。そして、宙と空は統一的なものである。だとすれば空に象徴される気分の様相は、宙の中に初めから存在しているのである。空には風が吹いているのだが、宙には宇宙線が吹き続けている。宇宙線の形式というのは揺らぎであり、揺らぎには―何度も繰り返したが―イライラ、フワフワ、高揚と落ち込み、等、気分の形相が内包されている。したがって宙の領域、阿頼耶識というのはエモーショナルな世界なのである。これが固着してしまっては、情動の概念が成立しない。情動とは動的で気体的な意味のことである。

 アルケーとしての情緒を考える場合、この前提は重要で、つまりエモーショナルな意味が顕現したのが私たちの世界なのだから、私たちは景色に情緒を感じることが出来るのである。明言出来るのは、阿頼耶識というのは人間に特有の識ではない。森羅万象における識である。例えば動物は却って表層意識が弱いので、阿頼耶識における情動がそのまま行為や行動になる。動物における知というのは直感なのである。直感と直観の違いはここにもある。直観というのは人間らしい認識なのである。だから動物は知ってはいても、それを明確に知ってはいない。無意識的に知っているのである。他方、直感が優れていることの利点は、周知の通りではあるが、鮫が地震を来ることを予感したりする場合で、五感を超えた知を活かすことが出来る。

 体癖論とMBTIの違いもここにある。体癖論の9種と10種は直感に優れているのであって、直観が秀でているわけではない。逆にMBTIでは直感ではなく、直観に秀でたものの類型化を図ったのである。ここは非常に西洋と東洋の違いが現れているなあと思う。

 前述した通り、西田の純粋経験は直観というより直感であり、『善の研究』で結論付けた善に辿り着く方法、意志の直覚というのは、絶えず意志を魂の方から直感し、それを知ることが善に繋がるということだと、私は解釈している。経験は個人的な我を超えている、というのは『善の研究』の前書きに書かれていたことである。換言すれば、直感は阿頼耶識という個人的な我を超えたところに通じているのだから、そこで悪しき欲求も、小さな欲求も超え、世界に適う欲求を感じ取り、果たすというのが善であるのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?