「テクストを紡ぐ」

 テクストを紡ぐ、という。紡ぐのは糸であるが、糸というのは超弦理論でいう、弦や紐と呼ばれるものだろう。世界を構成する最小単位、究極の単位は糸なのである。この糸というのは ~ こう表すことが出来、これは揺らぎであり、気分の形相を持つ。この情動を私たちは紡ぎ、織りなし、布を作る。布は衣になる。或いは布団になるし、或いはカーテンになる。これらに共通する述語は、包むということである。衣も布団も身を包み、カーテンは窓を覆う。覆うということは、包むことと相似している。
 テクストを紡ぐという時に、私たちは包むものや覆うものを作っている。言葉が包むものであるということ、覆うものであるということは、どういうことだろうか。
 とりあえず言えることは、 ~ のような気体的な意味を、練り込み、紡ぐことで強い意味にし、それを織りなせば布という、何かを包むものになるということだ。気体的な意味は、繭であり、それは雲に比せられる。それを紡ぐことで、液体的な意味になり、それを織りなせば固体化したテクストになる。
 言葉は食べ物である、と前著から考えているのだが、私たちは衣を食べているのだろうか。食べ物と包むものの違いは、食べ物は内的なものに落とし込むのに対し、包むものは外的に纏うものであることだ。
 なぜ言葉を纏うのだろう。創世記から考えてみれば、人類は知恵の実を食べ、言葉を話せるようになり、裸の身体に羞恥心を覚え、衣服を身に纏うようになった。言葉が纏うものであるのは、この創世記の物語と照応する。
私たちがテクストを解釈する時、一旦織りなされた糸を解し、意味を明らかにするという作業をする。糸を解すということは、食べ物で言えば噛み砕くということだ。解された糸は弛緩し、また織りなす可能性を与える。
中島みゆきの歌である「糸」で印象的なのは、縦の糸と横の糸があり、それが出会いであるということだ。そしてそれは仕合せであり、幸せである。縦の糸と横の糸の、縦と横とは何を表しているのだろう。糸とは紐にもなり得る。紐は結ぶものである。
 ところで布というのは二次元的なものだ、書物というのも二次元的なものである。縦と横しかない。奥行きは私たちの想像力に任されている。衣になると三次元的なものになる。身体を包むものとして衣はあるのだが、身体というのは血肉で出来ている。血肉というのも食べ物から構成されるので、言葉が食べ物なら、私たちは言葉を言葉で包んでいるのだと言える。
衣というのは、裸の身体を守るものである。私たちの形相を、直に晒すことのないよう、衣で覆い守るのである。私たちの精神を構成する言葉も、テクストを読むことで守ることが出来る。言葉は食べ物のように栄養にもなるが、衣のように、布団のように、私たちの精神を構成する言葉を覆い、眠らせることが出来る。言葉は栄養にも癒しにもなる。
 布団の中で夢を見るように、私たちは言葉の中で夢を見る。私たちは母親の身体に包まれて生まれる。母親の身体というのも一つの言葉であり、それに包まれて私たちは生まれることが出来る。その言葉の中で夢を見るのである。
 時々、私たちは自分の着ている衣服を貶される。なんでそんな言葉の中にいるのかと貶される。恥ずかしくなり、自分の衣服の糸を解していき、また織りなおす。衣服というのはマナーである側面も持つ。その場に合わせた衣服を仕立て直して、またその場に出る。しかし結局、人は自分の身体に合った衣服が着たくなる。自分の言葉を守る言葉を纏いたくなる。
嘘を纏うこともある。自分を隠したいから、当たり障りのない衣服を選ぶこともある。
 カーテンは瞼のようだ。閉じれば見なくて済むし、見たければ開ければいい。眠っている時は閉じているし、起きれば開ける、瞼のようだ。カーテンは風に舞う。言葉も心を開けば、風に舞うだろう。言葉が風に舞う時、私たちは言葉を忘れる。ただ情動が露わになる。踊る時、私たちの言葉は舞っているのだろう。肉体における言葉も、衣服における言葉も。
 詩人の言葉も舞っている。そこでは言葉は固定されておらず、意味が宙や空や海に在る。舞っている時、私たちは待っているのだ、出会えることを、仕合わせを。
  衣服をタンスにしまっておくと、まるで葉を食べた跡のように、虫に食われていることがある。糸を紡ぎ、それを織りなして出来た衣服というのは、一つの葉なのである。創世記では衣服の代わりに、身体に葉を纏った。衣服というのも食べ物になり得る。そしてそれは葉であり、まさに言葉なのである。地球にとって、葉とは毛である。獣は衣服の代わりに毛を纏っている。衣服や毛は、布団のように包むだけでなく、温もりを与える。温もりは生命を象徴する。というのも、葉や毛は生命の先端にあるからだ。葉は植物の先端にあり、毛は身体の先端にある。この世の先端にあるのが生命である。
 意識というのも葉や毛と、その形相を共有する。それはいつも先端にある。葉や毛は生えては枯れ、抜け落ちたりする。まるで泡沫のように。生命の儚さというのは、この構造にある。生命とは生まれては消える泡沫である。
 温もりは気を籠らせる。そこには匂いが染み付く。したがって雰囲気が醸し出される。言葉は温もりを身体に与え、それは雰囲気を醸し出す。唯識で言えば、これは薫習した後に出る習気である。種子というのも、何度も呑み込んだ言葉とその意味が、阿頼耶識に記憶されるもので、その意味が気体的な形態で現れるのが、習気と呼ばれるものになる。
 葉が青々としている、という表現はイマージュの表現である。そこにあるのは、夏の晴れた空が、葉に移り、映ったものである。表層意識を葉が象徴するなら、表層意識というのは日光に照らし出され、晴れることでその機能を健全にするのだ。意識は青色を内包している。ここに起きている事態は、葉という事物にも、意味が映し出されているということである。
ベルクソンがいう事物に宿るイマージュを、このように考えることが出来る。
 葉や毛は表層意識を象徴する。これを理事無礙であるということが出来る。葉は毛である。これを事事無礙であるということが出来る。つまり象徴は理事無礙を、比喩は事事無礙を示す。
 葉は全て空に向けられている。表層意識も全て空へ向けられている。表層意識というのは、潜在意識にあるものが空に放たれたものである。空と美は照応関係にある。したがって空へ放たれた表層意識とは、全て表現的である。これを抑圧すれば、重みを持って潜在意識へ還る。精神病が表現を抑圧された末に成立するというのも、よく表現出来るなら、表層意識は晴れた空であり、それが抑圧されるなら、空は曇る、という事態によっている。
 私たちは衣服を食べる虫でもある。衣服というのは、本能には余計なものである。それは言語の世界で言えば、飾りである。つまり言葉における衣服というのは、象徴であり、比喩である。詩とは、魂の言葉なのだろうが、それは裸であるのか、美しい衣服であるのか、という問題も出てくる。しかし、とりあえず言えるのは、言葉における衣服というのは、M領域すなわち想像的な世界のものである。
 ただ淡々と言葉を並べるなら、それは肉体がそのまま表現されていると言えるだろう。そこに象徴や比喩があるなら、衣服に包まれた肉体が表現されていると言えるだろう。美しい比喩とは美しい衣服なのだろうか。
 私たちはお洒落のために、宝石を身につけることがある。言葉にとって宝石とは何だろうか。恐らく、それは何らかの純度の高い結晶なのだろう。私たちの純粋な意志とその行いの結実として、宝石は身に付くのだろう。

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