#創作
【ショートストーリー】はるかぜ
冬の冷気をまだ少しだけ含んだ風が吹いていて、スカートの裾が私の足首に触ってこそばい。私は駅のホームの先端に立って、線路わきに揺れる小さな野の草を眺めていた。
この優しい風はどこかの国の砲弾や戦場の黒い煙の中をくぐり抜けてから時間をかけてここにたどり着いたのかも知れず、この穏やかな春の草花を優しくなでた後にはまた海や異国の町、もしくは黄色いばかりの砂漠なんかへ、別れたり合流したりを繰り返しながら
【ショートストーリー】ホワイトデー
仕事場から家に帰る途中に、ちょっといいチョコレート屋がある。
今日は3月14日、ホワイトデー。
妻と娘へのバレンタインのお返しに、そのチョコレート屋でちょっといいチョコレートを買って帰ろうと思っていたのだけれど、案の定仕事が遅くなってしまい、帰るころにはもうその店はとうに閉まる時間になってしまっていた。
妻は最近、中国のドラマにはまり、ユーチューブで中国語の勉強をしている。
娘は娘
【ショートショート】征服者
「生命反応が出ているのは、あの星のようだな」
「ああ、間違いない。調査に向かうことにしよう」
渦巻き状の星系の端の方にある、比較的小さな恒星の周りをまわる8つの惑星のうちのひとつ、青色の美しい星をめがけて、私たち2体は宇宙船を進めた。
私たちの任務は、この広大な宇宙空間の中で、生命の存在する、あるいは存在可能な星を探査し、調べることであった。
その目的は、もちろん征服だ。
私たちは
【短編小説】ある老人の一日 ⑤ (終章)
→ ある老人の一日④ はこちら
夕方になり、老人は部屋の中でひとり焼酎を飲んだ。アパートに住んでいる者はみんな出ていき、残っているのは自分だけになってしまった。もう誰の声も聞こえなかったし、自分の出す声や音が誰かに伝わるということもなかった。
少し前に激しい夕立があり、ときおり湿気を含んだ風が、開け放たれた戸を通じて吹き込んできた。
煙草に火をつけた後、ペットボトルから焼酎をカップに注
【短編小説】ある老人の一日 ④
→ ある老人の一日③ はこちら
蝉が鳴いている。蝉の声を聞くと、子どもの頃を過ごした田舎の景色が思い出された。同時に、生い茂った草むら、草のにおい、川のせせらぎを感じる。夕暮れに鳴くヒグラシの声。田舎へ行き、幼い息子にヒグラシの声を教えてやったこともあった。しかし、半分都会のこの街で聞く蝉の声は、田舎で聞いたのとは違う、どこか暴力的であるようにも感じられた。
老人は、草履をはいて外に出た。
【短編小説】ある老人の一日 ③
→ ある老人の一日① はこちら
→ ある老人の一日② はこちら
ケースワーカーは、最後に封筒を置いていった。市からの給付金の申請用紙だった。生活保護を受けている者にも一律に受給できる、国のバラマキ政策のひとつだった。正木という若者は「中の書類に必要事項を記入して郵便で出すように」と言い残して帰っていった。
正木が帰った後、老人はしばらく動くことができなかった。食欲もなく、近くにあったコッ
【短編小説】ある老人の一日 ②
※前の回の内容は、この記事最後のリンクからお読みいただけます。
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老人はベッドに腰かけながら、ケースワーカーに言った。
「ケースワーカーの家庭訪問は、急に行くから意味があるんですよ。約束して訪問なんてしたら、本当の生活実態が見られないじゃないですか。」
老人は、煙草に火をつけた。
「病院には行きましたか?」
正木は強い口調で老人に尋ねた。正木は老人の前に立ったまま、部屋の
【短編小説】ある老人の一日 ①
老人にはもう、時間なんてあってもなくても同じようなものだった。春のあとには夏が来て、次に秋、冬と来て、また春が来るだけのことだった。振出しに戻る、だ。一日にしても、同じことだ。ただ、晴れの日と雨の日と、その間にそうでない日とが混じるだけであった。
真夏のある日、黄ばんだ小さい窓を通して入り込んでくる、弱い陽の光の中目を覚ました。暑いはずであったが、空気の温度にさえ感じ方が鈍くなってきていた。
【ショートストーリー】フェアリー
6月から半年間、私はある市役所の特設窓口でアルバイトとして働くことになった。仕事内容は、新型コロナウイルス感染症による市民対応ということだった。
毎日、9時から5時まで、市役所1階に設置されたカウンターに座る。やり始めてわかったのが、私に求められている仕事は、市の不手際による対応の遅れに対する市民からの怒号、恫喝ともとれる苦情をただただ聞くことだった。
私ともうひとり、私よりも少し若いと思わ
【小説】ふくろう探偵社の日常 vol.3 「影のある女」
もっと軽くて短い話にしようと思っているのだけれど(イメージとしては暇な探偵のくだらない日常を描いた4コマ漫画)、全然そんな感じになっていません。
まだ探偵社も開業できていない始末ですが、よかったら読んでください。
※今回は、探偵をやるということを親に報告に行こうとするところからの話です。
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国道を自転車で走る。大型トラックが猛スピードで真横を通り過ぎるたび、ヤス
【ショートストーリー】未明の火事
肩を揺さぶる妻によって総一郎は目を覚ました。彼女はささやくような声で言った。
「火事よ、火事」
「なんだって?」
総一郎は慌ててベッドから身を起こした。
窓を開けて外を見ると、家から少し離れたところから、黒い煙と赤い炎が踊っているのが見えた。昨夜は外で遅くまで酒を飲んでいたので、総一郎は工場の作業着のまま寝てしまっていたことを思いだした。時計の針は夜明け前の4時をさしていた。
「ねえ、
【ショートストーリー】モスグリーンのセーター
空には、半月からやや膨らみ始めたくらいの月が、少し傾いだように浮かんでいる。
湿気が多く、街並みや道路を走る車のライトが、細かい水滴のプリズムを通して見ているみたいに鮮やかだった。仕事帰りの夜だった。駅の階段を登り切った後、直之は電車のやわらかな、緑色のベルベッド生地でできたようなクッションの上に疲れた体を投げ出した。車内には化粧品と香水と汗と、それから何か食べ物のようなものが混じり合ったよう