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【ショートストーリー】未明の火事

 肩を揺さぶる妻によって総一郎は目を覚ました。彼女はささやくような声で言った。
 「火事よ、火事」
 「なんだって?」
 総一郎は慌ててベッドから身を起こした。
 窓を開けて外を見ると、家から少し離れたところから、黒い煙と赤い炎が踊っているのが見えた。昨夜は外で遅くまで酒を飲んでいたので、総一郎は工場の作業着のまま寝てしまっていたことを思いだした。時計の針は夜明け前の4時をさしていた。
 「ねえ、ちょっと見に行きましょうよ」
 舞子は、半分興味本位のような声で言った。総一郎はまだ寝ていたかった。しかし、
 「もしかしたらうちに燃え移ってくるかもしれないじゃない。そうなったら大変だよ」
 と舞子が言うので、仕方なく二人で外に出ることにしたのだ。
 火事の現場は、彼らの家からほんの十数メートル離れた2階建ての一軒家だった。消防車が2台と救急車、そして警察の車両も何台か集まってきていた。そしてすでに多くの近隣の住民が表に出て、家が燃える様子を眺めていた。
 焦げるようなにおいがあたりに立ち込めている。現場近くに立ち入ることのないよう、非常線がはられ、消防士、警官が目まぐるしく動き回っていた。
 火事がよく見えるようにと非常線の一番手前まで進んでいくと、そこには近所に住む男性の顔があった。顔だけ知っている、名前も知らない男だ。その男によると、燃えている家は、少し前から空き家になっていたそうだった。借金の問題でその家を売り払ったようで、今は不動産屋が売りに出していたところだという。
 「良かったわね」
 舞子が言う。
 「何が?」
 「だって、空き家だったらだれも被害が出ないじゃない。ま、このご時世、不動産屋は痛手だろうけどもさ。」彼女は言った。「どちらにしても、うちには燃え移らなそうよね」
 「そうだね」
 総一郎は、自分の家の方向に視線をやったが、彼らの家はちょうど窪地のようなところに建っていたため、見ることはできなかった。数年前に新築で買った小さな家だ。まだまだローンがたっぷりと残っていた。
 「そういえば、同僚の奥田、覚えてるか?」
 「奥田さん。覚えてるよ。去年子どもさんが生まれて、お祝いをあげた人でしょ」
 「ああ」総一郎は言った。「その奥田なんだけど、昨日解雇になったんだ」
 「ええ、そうなの? 子どももまだ小さいのに大変じゃない? どうしてなの?」
 総一郎は、2階の窓から吹きだすように暴れる黄色い炎を見つめながら言った。
 「うちの工場も、最近は受注がずいぶんと減ってきてるんだ。俺も頑張らないと・・・」
 黒々とした煙が、まるで暴れ馬のたてがみように空に向かって立ちのぼっている。煙は雲のようになり、その隙間から、かすかに光る小さな星々を見ることができた。
 パチパチと木材のはぜるような音がひっきりなしに続く。
 酸素ボンベを背負った消防士が何人か、家の中に入っていくのが見えた。
 その瞬間、炎の勢いが増し、家から大きな音が響き、2階部分が下に崩れ落ちてきた。火の粉が大きく舞い上がる。現場に張り詰めた空気が走る。路上で現場の指揮をとる消防士が、無線で激しく大声でまくし立てている。
 
 
 突き刺すようなホイッスルが鳴り、警官が非常線を張り直しはじめた。
 見物人は少し下がることになった。舞子と総一郎は後ろに下がり、火事から少し距離を置いたところから眺めることにした。
 「さっきの消防士、大丈夫かしら」
眉をひそめて舞子は言った。
 「どうだろうな」
 2階が崩れ落ちたことで、火の勢いは少し弱まったようだった。しかしその分、赤々とした火の粉が無数の星のように宙を舞っている。
 突然、周囲にどよめきのようなものが起こったように感じた。続いて、バラバラという激しい音と、何者かによる怒号のような叫び声があたりに響き渡った。
 「道を開けてください」誰かの切実な叫びがはっきりと聞こえた。
 オレンジ色の消防服を全身にまとった消防士が、火事の現場から走り出てくるのが見えた。
 「道を開けろ! どいてくれ!」
 彼は怒鳴り、その周りを数人の警官が囲んで一緒に走り出した。
 消防士は、真っ白い布にくるまれた何かを胸に抱いていた。
 「何かしら?」
 妻がひとりごとのように言う。
 消防士が非常線をくぐってこちらに走ってくる。
 「赤ん坊じゃないの?」
 「ああ、赤ん坊だ」
 総一郎は驚きながら言った。
 驚いたことに、白い布にくるまれていたのは小さな赤ん坊だった。どういうわけかわからないが、燃え盛る家屋の中に赤ん坊が残されていたのだろう。消防士は、炎の中にその小さな命の姿を見つけ、火の中に果敢に飛び込んでいったのだ。
 小さな命は、舞子と総一郎の前を消防士に抱きかかえられたまま、背後の救急車に向って通り過ぎる。小さな額と、小さな手が白い布の隙間から見えたが、どのような表情をしているのかは見えなかった。
 「どうして?」妻が祈るように言った。「生きてるのかしら?」
 「さあ、どうだろうな」
 夫は伸びたあごひげを強く撫でた。
 救急車では、すでに赤ん坊を受け取る準備が整っているようだった。待ち構える救急隊に、消防士は反応のない赤ん坊を手渡した。その時、赤ん坊が声をあげて泣き出したのだ。か弱いながらも懸命な叫び声であった。
 「生きてるわ。」
 妻が、叫んだ。
 「ああ、ほんとに」
 妻を見ると、その瞳には赤々と燃える炎が揺らめいて映っていた。
 赤ん坊を乗せた救急車は、サイレンを響かせながらあわただしく東の方へ走っていった。
 総一郎は、思わず妻の手を取った。妻もその手を強く握り返してきた。
 東の空に、金星が明るく輝いている。そして夜が白々と明け始めていた。

読んでいただいて、とてもうれしいです!