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【短編小説】ある老人の一日 ③

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 ケースワーカーは、最後に封筒を置いていった。市からの給付金の申請用紙だった。生活保護を受けている者にも一律に受給できる、国のバラマキ政策のひとつだった。正木という若者は「中の書類に必要事項を記入して郵便で出すように」と言い残して帰っていった。


 正木が帰った後、老人はしばらく動くことができなかった。食欲もなく、近くにあったコップに焼酎をついで飲んだ。そして、ひっきりなしに煙草を吸った。まるで自殺行為だ、と思いながら。そして、自分の父がいつも、エコーという安い煙草をひっきりなしに吸っていたのを思い出した。茶色い質の悪そうな紙の箱に入ったその煙草を、近所のたばこ屋によく買いに行かされたものだった。父と父の部屋は、常にエコーの香りで満たされていた。小柄で痩せた少年時代の老人は、その匂いが嫌いではなかった。むしろ居心地の良い安らぎのようなものを覚えたものだった。


 節くれだった自分の手は、父のそれにそっくりなように思えた。あるいは、父の手のほうがもっと大きくて、力強かったかもしれない。どちらにせよ彼は、老人になった父の手を知ることはなかったのだ。


 老人は、給付金の封筒を破り捨ててやろうと思ったが、やめた。あの若いケースワーカーは、申請してもらわないと自分が怒られていしまうのだ、と言って帰って行った。実際老人にとって、そんなことはどうでもよかったのだが。

 「杉下さん、すんまへん」
 隣の部屋の住人が、玄関から顔を出した。
 玄関に行くと、アパートの通路に隣の住人の爺さんと、その隣に中年の女性が立っていた。
 隣の住人は言った。
「今日でここ出ていくことになりましたんや。えらいお世話になりましたなぁ」
 色褪せたシャツに、ダボっとした茶色いスラックスを履き、小さな麦わら帽子のようなものをかぶっていた。
 「そうでっか。そりゃ、寂しなりなすなぁ」杉下は言った。「どこ行きますねんや?」
 「いや、安うて入れる老人向けの住宅がありますねん。泉南の方になりまんねんけどもな、そこ行くことになりましたんや」
 そういって、隣の住人は横の女性の方を見た。
 「娘さんですか?」
 「ええ、まあ」
 「ほんま、お世話になりました」
 女性は軽く頭を下げた。隣の爺さんは、ただ黙って頬を緩ませた笑顔を保っていた。
 スーツを着た業者のような男が、階段を上がって彼らの方に歩いてきた。
 「じゃ、そろそろ行きましょか」
 隣の住人は、その男に連れられてゆっくりとした足取りで通路を行き、そして階段を下りて行った。


 夏の日差しが強かった。階段を降りるに従って、彼らの姿は足の方から見えなくなっていった。最後に残った彼の小さな麦わら帽子も、やがて隠れて見えなくなった。


 老人は空を見上げた。向こうにたたずむ山肌、その青々とした樹々の上に、たくましい入道雲があった。彼は分かっていた。自分がこのアパートの最後の住人になったのだ。



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