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【短編小説】ある老人の一日 ④


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 蝉が鳴いている。蝉の声を聞くと、子どもの頃を過ごした田舎の景色が思い出された。同時に、生い茂った草むら、草のにおい、川のせせらぎを感じる。夕暮れに鳴くヒグラシの声。田舎へ行き、幼い息子にヒグラシの声を教えてやったこともあった。しかし、半分都会のこの街で聞く蝉の声は、田舎で聞いたのとは違う、どこか暴力的であるようにも感じられた。


 老人は、草履をはいて外に出た。足が思うようにうまく上がらない。一歩一歩が小さく、階段を降りるのにも慎重にしなければならなかった。
 アスファルトに落ちる自分の影がとても濃く、小さくなっている。近所の保育園の敷地から、子どもたちが歌を歌う声が聞こえてきた。
 老人は、コンビニエンスストアに向かった。ケースワーカーが置いていった申請書を送るために、封筒と切手が必要だったのだ。
 コンビニエンスストアで適当な封筒を選んだ。封筒をつかみながらレジへ行き、女性の店員に、94円分の切手があるかと尋ねた。
 「少々お待ちください」
 店員は、カウンターの下を探り、そして戻った来た。
 「すみません、84円切手ならあるんですが、94円はちょっと・・・」
 「84円切手と10円切手でいいんやけどな」
 老人は言った。
 「すみません、10円切手を切らしておりまして」
 「え、ないんかいな?」
 「別の店か、それか郵便局に行ってもらえたらあると思いますんで」
 店員は、何ということもないように言った。
 「そんな事、あんたに言われんでもわかってる」
 別の店に行ってもあるかどうかわからないし、郵便局に行くにしてもかなりの距離を歩かねばならなかった。
 「コンビニやったら、ちゃんと置いとかなあかんのちゃうの? それやったらコンビニの意味ないやんか」老人は言った。「ま、あんたが悪いわけじゃないんやけどもな」


 結局、封筒と84円切手だけ買って帰ることにした。なんだか得体のしれない怒りを覚えていた。コンビニの店員、市役所のケースワーカー、隣の住人を連れて行った人間、そして自分の感情、そのようなものすべてが腹立たしく思えた。すべてが幻で、本当はまだ自分は子どもであり、田舎の畳の上で目を開ければそこには自分を笑いながら覗き込む両親の顔があるのではないか、ということを思おうとした。しかし、ゆっくりとまばたきをして目を開けると、そこにはやはり、夏の日に照らされてすべてが白くなってしまったかのように見える現実の世界が自分を取り巻いているだけだった。


 膝が痛む。息も苦しい。老人は地面に尻もちをつくように熱いアスファルトの上に座り込んだ。何人もの人間が自分の前を通りすぎていく。老人はしばらく動くことができなかった。狂ったように鳴く蝉の声を浴びながら――金属的な蝉の声がまるで重みをもって自分の体を抑えつけてくるようだった――老人はじっと息が整うのを待っていた。


読んでいただいて、とてもうれしいです!