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【小説】ふくろう探偵社の日常 vol.3 「影のある女」

 もっと軽くて短い話にしようと思っているのだけれど(イメージとしては暇な探偵のくだらない日常を描いた4コマ漫画)、全然そんな感じになっていません。

 まだ探偵社も開業できていない始末ですが、よかったら読んでください。


※今回は、探偵をやるということを親に報告に行こうとするところからの話です。

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 国道を自転車で走る。大型トラックが猛スピードで真横を通り過ぎるたび、ヤスハルの体にはガスの匂いのする生ぬるい風圧が吹き付ける。すこしだけヘルメットをかぶってこなかったことを後悔する。
 次の信号が赤に変わった時、彼はわき道に入り住宅街を通ることにした。国道から一本入るだけで景色はまるで別世界のようにがらりと変わる。寂れた団地や古ぼけたアパートが並び、そこからほんの少し離れたところでは、大きな一軒家が軒を構えている。どうしようもないアンバランス感だ。
 しかしそのアンバランスな風景こそがヤスハルの生まれ育った町だった。道の両側には、大きく育ちすぎたイチョウの木が並んでいる。
 近くの公園でクロスバイクを止め、自動販売機で缶コーヒーのブラックを買った。ベンチに腰掛け、秋の空気を感じながら公園のベンチに腰掛けてプルトップを開けた。
 空が高く、蜘蛛の糸のような雲がかすかに青空に繊細な模様をつけている。ヤスハルはそんな空を見上げながら、何とはなしに自由を感じていた。まるで、大学の学生だったころに、食堂のそばで紙コップに入ったブラックコーヒーを、ひとりで何かに浸りながら飲んでいた時のように。ある時から、そうやっていつもコーヒーを飲んでいる彼に気づいた掃除係の年配の男性が、ちょくちょく彼に声をかけてくれるようになっていた。
「コーヒーおいしいかい?」
 そういっておじさんは、顔をしわくちゃにして笑った。
「はい、おいしいです」
「いつも飲んでるなぁ。コーヒー好きなんかいな」
「好きですね」
「そうかあ。なんか難しそうな顔して飲んでるから、何考えてるんやろうなぁっていつも気にしとったんやで、兄ちゃんのこと」
「そんな顔してましたか?」
ヤスハルは聞いた。
「まあな。でも、考えるのは若い人の特権や。まだまだこれからやもんなぁ。おっちゃんなんかもうあかんわ」
 そういって笑う彼の顔は、とてもよく日焼けしていて、まるで険しい崖にある岩のように深いしわが何本も刻み込まれていた。
 外で缶コーヒーを飲むときには、ヤスハルなぜか今でも彼のことを思い出すのだ。
「あのおっちゃん、どうしてるかなぁ」
 公園の樹々の葉が風に揺れてこすれる音を聞きながら、ヤスハルは実家に行くのが急に億劫になった。探偵になることはもう決めたことなんだし、わざわざ親に相談に行くこともないだろう。
 彼はコーヒーをぐいっと一飲みすると、自転車にまたがり今来た道を引き返していった。
 
 途中、ビールを買いにコンビニエンスストアに立ち寄った。ちょうど昼時だったので、サンドイッチとビールをかごに入れレジに並ぶ。レジには何人かの客が列を作っていたが、その時からなんとなく不穏な空気をヤスハルは感じ取っていた。レジの近くにひとりの男が体を揺らしながら妙な雰囲気を出して立っているのだ。
「ヤバイな」
 とっさにヤスハルは彼の動きに注意をはらった。歳は30前後で自分と同じくらいかそれより少し若い。髪は耳が隠れるくらい長く、靴はコンバースのハイカットでひどく汚れている。黄色いTシャツにベージュの綿パンのようなものを履いていて、一見どこにでもいそうな男であったが、腕と肩の筋肉の盛り上がりはちょっとした見ものでもあった。
 列がひとつ進んで、女性がレジ棚に買ったものを置こうとしたときだった。横で体を揺らしていた黄色いTシャツの男が、突如彼女の前に割り込んできたのだ。
 そして何も言わずに、横暴なしぐさでレジ棚にポテトチップスの袋を置いた。店の中の空気が一気に張り詰めたのが分かった。女性は男の横に立ちながら、しかし男の方をじっと睨み続けている。なかなか気の強そうな女性だ。学生のように見える若い男性店員は、どうしたものかとまごついた表情を浮かべていた。
 男は一瞬、隣の女を睨み返したが、それからさも当然というように、
「あとタバコ、27番」
 と店員に告げたのだ。カラスの鳴き声のような声だった。
 レジにはヤスハルと女性を含めて、4組が並んでいたが、ヤスハルは列から離れ、その男の方へ歩み寄って行った。男の横に立ち、ビールの入ったかごを音を立てて地面においても、その男はヤスハルの方を向かない。店員が飛び出しそうなくらい目を大きくしてヤスハルの方を見つめている。
「あの」
 ヤスハルは黄色いTシャツの男に言った。
「あ?」
 カラスが威嚇するかのように鳴いた。ヤスハルの方を振り向いた瞬間、髪の毛が揺れ、なんだか泥のような匂いが漂った。
「みんな並んでるんですがね」
 ヤスハルがそういうと、男は後ろを振り返り、列に並んでいる人たちを見た。女性の後ろには年配の男性、その後ろには母とその娘。小学校にも行っていなさそうな幼い女の子は、母の影でおびえながらも、その男の方をじっと責めるような顔つきで見つめていた。
 その時、バックヤードからもう一人の店員が出てきて、隣のレジを開けた。事情を知らないその店員は、
「お待ちのお客様、こちらのレジへどうぞ」
 と声をかけると、男はヤスハルに向って舌打ちをし、ポテトチップスの袋を奪い取るようにしながら隣のレジに移動したのだった。
 ヤスハルはレジをすまし、外に出てため息をついた。自転車の方へ歩いていくと、1台の軽トラックの影からさっきの男が現れた。そして、
「お前、うっとうしいんじゃ!」
 と叫びながら、殴りかかってきたのだ。ヤスハルは、自転車ごとその場に倒れこんだ。実を言うと、このように誰かに殴られるのは初めての経験だった。痛みはそれほど感じなかったが、しかしそれは、まるで全力で走っている最中にいきなりコンクリートの壁にぶつかった時のような衝撃だった。
 目を開けると、すぐそばに汚れの染みついたコンバースの靴があった。男はそれでヤスハルの腹を蹴り上げようとしていた。
 まさに「チャンドラーのフリップ・マーロウ」じゃないか、とヤスハルは思った。そして、こんな時にそんな想像をするなど意外と余裕があるじゃないか、と自分でも驚きながら思ったものだ。そして、コンタクトレンズが割れていないことに少々安心もした。
 蹴り上げてくる足をかろうじてかわすことができ、彼は立ち上がった。立ち上がると185センチのヤスハルははるかにその男よりも大きかった。剣道をやっていたので姿勢もよく、男を見下ろすような形になった。そのため、男は少しひるんだ様子を見せ、最後はくだらない捨て台詞を吐いて去っていった。
 ヤスハルはもう一度ため息をついた。頬骨のあたりに痛みが出てきたが、出血はしていないようだった。自転車を立て直していると、一人の女性が彼の方にやってくるのが見えた。栗色の長い髪の女性で、その表情には神秘的な影を宿しているようにも見えた。ドレスでも着ていたらドラマチックな展開になるのかもしれないな、と彼はとっさに思った。こんな女性が俺の依頼人になってくれたら最高にハッピーなんだけどもな。
 しかしよく見ると、彼女はさっきのレジに並んでいた女性だった。細身のジーンズにボーダー柄のシャツを着ていたが、やはりそれでも魅力的なことに変わりはなかった。
「大丈夫ですか」
 彼女は彼にハンカチを差し出したが、ヤスハルはそのハンカチを丁重に辞退した。
「さっきは、ありがとうございました。おかげで助かりました。」彼女は頭を下げた。「でもなんてやつなんでしょうね。逆恨みもいいとこですよね」
 彼女は、気の強そうな一面をのぞかせながら言った。
「ほんとにね」ヤスハルは言った。「でもまだこの辺うろうろしてるかもしれないんで、気を付けた方がいいですよ」
「そうですね。本当にありがとうございました」
 もう一度ヤスハルに礼を言って、彼女は背を向けて歩いていった。

 その夜彼はひとりでビールを飲んだ。ビールを飲みながら、なんとなく昼間の彼女の表情に潜む暗い影の原因は何なんだろう、と考えていた。
 部屋の外では、パトカーのサイレンと救急車のサイレンがけたたましくなっていた。いつもと変わらぬ夜だった。

読んでいただいて、とてもうれしいです!