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【ショートストーリー】はるかぜ

 冬の冷気をまだ少しだけ含んだ風が吹いていて、スカートの裾が私の足首に触ってこそばい。私は駅のホームの先端に立って、線路わきに揺れる小さな野の草を眺めていた。
 この優しい風はどこかの国の砲弾や戦場の黒い煙の中をくぐり抜けてから時間をかけてここにたどり着いたのかも知れず、この穏やかな春の草花を優しくなでた後にはまた海や異国の町、もしくは黄色いばかりの砂漠なんかへ、別れたり合流したりを繰り返しながら流れていくのだろう。
 私の視線の下では、紫色の小さな花をつけた草がいくつも咲いていた。小さいけれど、どこか張りのある花弁のその花は、みっつかよっつずつくらいが組になって集まりながら、朝の陽に向って茎をのばしてまるで背伸びをするかのように咲いていた。
 振り返ると、私のすぐ後ろに白い髪をショートカットにした、ほっそりとした女性が私に寄り添うようにして立っていた。
 「あれは、きゅうり草って言うんですよ」
 彼女の声はまるで春風のようだった。
 「へえ」
 私は答えた。
 「小さくて儚そうだけど、でもとてもかわいいでしょ。私の好きな花なんですよ」
 彼女は微笑みながら言った。その女性の前髪が一定方向に揺れてなびいている。
 駅の先端はさえぎるものが何もなく、風が好きなようにぶつかってくるのだ。そのエネルギーはいったいどこから来るのだろうか、そして失われる時はあるのだろうか。なぜだか私は、自分の心がどこかへ連れ去られ、もう戻ってくることができなくなってしまいそうな、でもそれはそれでいいのかもしれないな、などとそんな思いに一瞬とらわれてしまった。
 女性の前髪はいつまでもなびき続け、その笑みはどこまでもやさしいものだった。
 どういうわけか私はとても恥ずかしくなり彼女に向って会釈をしその場を立ち去るように歩き出した。

 駅のホームを私は後ろに向かって進んでいく。壁に貼り付けられたポスターの色褪せた笑顔が私に幸せを押し付けてくる。このポスターの女性も今はもう老人になっているのではないかと思うくらいの古びたポスターだった。彼女の人生はこの写真の笑顔と同じくらい幸福なものになっていたのだろうか。何におびえることもなく、きれいに着飾って町を颯爽と歩いたりすることができたのだろうか。

 私はホームの中ほどで立ち止まり、白い髪の女性の揺れる前髪の記憶の中、私の心は過去の私と彼女へと導かれていった。
 以前にも私と彼女とは、あの場所で同じような時間に同じような会話を交わしたことがあったのだ。あれはおそらく去年かおととしの、もしかしたら三年前くらい前だったかもしれないが秋の頃で、その時の彼女の前髪も今日と同じように揺れていて、こげ茶色の線路のわきにはススキのような草が揺れていて、そのはざまにまた弱々しい白い花が咲いて揺れていたのだった。
 あの時、あの人は何という名の花だと教えてくれたのだったろうか。
 私は駅のホームの真ん中で時間が停まってしまったかのように立ちすくみ、動くことができなくなってしまった。電車はまもなくやってくるはずだ。
 春らしい花柄の軽々としたスカートの裾が私の足首のあたりを触れながらひらひらと揺れている。



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