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【ショートストーリー】分身

 ぼくは、会社員だ。しかもどちらかと言えばうだつの上がらない方の会社員。毎日まじめに仕事をしてはいるが、特に誰からも評価を得ることができないような、そんな人間だ。
 そして、そんなぼくの唯一の趣味と言えるものが、ブログだった。ぼくは毎晩、その日の出来事などをパソコンにブログに書いて投稿した。寝る前に、布団の上に寝転がりながら、時に濃い目のアルコールを舐めながらブログを書くのが日課であり、唯一の愉しみでもあったのだ。

 今日もぼくは、通勤時間に遭遇したできごとについて、自分のちょっとした意見やコメントなどを添えながらブログに記した。

 自分と等身大の人物がブログの中にいた。いや、等身大よりも少しだけ背伸びした、少しだけカッコいい自分がネットのなかにいた。ブログの中では、ぼくは少しだけ強くなれるのだ。

 ネットの世界は、多元宇宙の中にある宇宙のひとつのようだ。現実とパラレルな世界で、しかももしかしたら5次元くらいある世界のようにも感じられる。そんな中で、ぼくは非常に小さな存在ながらも、誰かと時間と空間を共有しているという感覚が、なんとも言えず楽しいのだ。

 毎日書き続けたブログの数は、500以上にものぼる。会社の誰にもこのことは言っていない。ちょっとした秘密でもあり、隠れ家でもある。
 ”いいね!”や、”コメント”はほんの少ししか来ないけれど、それでも訪れてくれる人がいることに大きな喜びを感じていたのだ。ブログを書き続けることにより、パソコンの中にいる自分の分身も、ぼくとともに成長していくようにさえ感じられた。

 春がやってきた。ぼくの職場でも人事異動が行われ、営業部に一人の女性社員が異動でやってきた。ぼくはたちまち、ショートカットの彼女に恋をしてしまったのだ。異動以来、彼女はわからないことをぼくに何かと尋ねてき来てくれるので、だんだんと彼女との距離も近くなってきているのが感じられた。

 ぼくは、ブログでそのことを書いていた。彼女への想いを書き連ねた。ブログを書いているときだけは、ぼくははっきりと気持ちを言い表わすことができたのだ。
 彼女のことを書き始めてからというもの、ぼくのブログへのアクセスは増え始め、”いいね”はもちろん、”コメント”もだんだん増えていった。コメントの多くは、励ましのコメントだった。

 季節は7月になった。ある時ぼくは思い切って、彼女を映画に誘ってみた。というのも、ブログに来たコメントに触発されて、勇気を得たからだ。
 すると、彼女は嬉しそうに承諾してくれたのだ。明日の土曜日、彼女と映画に行くことになった。
 その夜ぼくは、布団に入りながらそのことをブログに書いていた。気分がとても舞い上がっていたので、アルコールをいつも以上に飲みながら。
 明日は、初デート。浮かれた気分で、ブログを書き込み、そしてアップをすますと、そのまま眠り込んでしまったのだった。


 土曜日の朝、ぼくは何とも言えない不快感とともに目を覚ました。なぜか、あたりは真っ暗闇だった。そして、不思議なことに、方向感覚はもとより重力というものがまるで感じられず、自分が思考だけの存在になっているように思われた。いや、視覚だけはかろうじて残されているようで、真っ暗なのが分かることと、ときどき様々な方向から弱々しいイナヅマのような光が走るのを見ることができた。

―――夢を見ているのだろうか?

 ぼくはしびれる頭で考えた。

―――どうなっているんだ? 彼女との最初のデートの日だというのに!

 しかし、ぼくはどうしようもなく、ただそこに居続けることしかできなかったのだ。まるで、広大な宇宙にたったひとり投げ出された宇宙飛行士のような気分だった。

 どれくらい時間がたっただろうか? 時間の感覚がないのでよくわからないが、周りの一部が長方形に切り取られたかのように明るくなってきた。意識をその方向に向けると、それだけで波に押し流されるようにぼく自身もそちらに移動していった。
 長方形の窓がそこにあった。明るく光る窓。その窓を覗きこむと、そこにはまさにぼく自身がいたのである。そいつは、いやぼく自身は、薄ら笑いを浮かべながらこちらを覗き返していたのだ。
 だが、そいつはいつも見慣れているぼくとはどことなく雰囲気が違っていた。そう。そいつは、ぼくよりも少しだけ強気な表情で、少しだけカッコいい自分だったのだ。

―――こいつは一体・・・

 ぼくは声にならない声でうなった。
 そして次の瞬間、今日ぼくが行くはずだった彼女とのデートの様子が、文字情報としてぼくの頭に一気になだれ込んできたのだった。

読んでいただいて、とてもうれしいです!