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【ショートストーリー】フェアリー

 6月から半年間、私はある市役所の特設窓口でアルバイトとして働くことになった。仕事内容は、新型コロナウイルス感染症による市民対応ということだった。
 毎日、9時から5時まで、市役所1階に設置されたカウンターに座る。やり始めてわかったのが、私に求められている仕事は、市の不手際による対応の遅れに対する市民からの怒号、恫喝ともとれる苦情をただただ聞くことだった。
 私ともうひとり、私よりも少し若いと思われる、斉藤あすかという女性と組むことになっていた。
 「何、今の人!? ほんと怖かった。由紀子さん大丈夫でしたか?」
 2時間も文句を怒鳴り散らした老人がようやく帰った後に、あすかが言った。
 「大丈夫だよ、ありがとう・・・」
 私は、息切れしながらあすかに答えた。心臓がバクバクしていた。
 「こんな小さな市なのに、ほんと変な人多いですよね」
 「ほんとに」
 私の声はまだ、先ほどの恐怖で震えていた。うまく息を吸うことができなかった。私たちの近くでは、正職と呼ばれる市の職員が働いていたのだが、私たちが市民に不条理に怒鳴られ、なじられている間、そのうちの誰ひとりとして私たちを助けに来てくれる職員はいなかった。
 「ここの職員ってもう最悪。私たちを何だと思ってるんだろうね。今日の朝なんて私、大声で文句言われてるときにあの人と目が合ったんですよ」あすかは、斜め向かい席でパソコンを打ち込んでいる職員を指さした。「でも、目が合ったとたんに目そらされて、ムカつくのなんのって」
 そんなことが私たちの日常だった。私は、毎日毎日大丈夫だと自分に言い聞かせるようにしていたのだけれど、食欲が日に日になくなっているのは確かだった。
 「由紀子さん痩せましたか?」
 あすかが私の顔を覗き込むように言った。
 食欲がなく、体重も明らかに減っていた。
 「ちょっと痩せたかもしれない・・・」
 そういって、私は目の前のフロアに置かれた、待合用の椅子を見やった。そして、「おや」と思った。フロアには、うすいピンク色をしたひとりがけの椅子が10個並んでいた。市役所に来た人はよく、時間をつぶすかのようにその椅子にしばらく腰かけては去っていくのだった。あるいは、何かの業者関係の人が待ち合わせに使ったりもしていた。
 そんな中で私は、毎日同じ女性がその椅子に長時間座っているのに気が付いたのだ。いつからかわからないが(もしかしたら初日からいたのかもしれない)、彼女は毎日いろんな時間にやってきては、私から向かって左奥にある椅子に腰かけて、数時間を過ごして帰っていくのだ。新聞のようなものを読んでいる日もあれば、チラシのようなものを広げているときもあった。しかし、なんとなく本当に読んでいるのかどうかは怪しいと私は思っていた。なぜなら、新聞でもチラシでも彼女はずっと同じページを開いているように思えたからだった。
 頭髪はすべて白くなっていて、全体にパーマをかけている。小学校の音楽室に飾ってあるバッハの肖像画のような髪型だ。
 きっと認知症か何か患っているのだろうな。私は考えていた。
 しかし私は、その年配の女性を、どこか見覚えがあるように感じていたのである。はじめて彼女の存在に気づいた時からそう思っていたのだが、どこで会ったのか、どうしても思い出すことはできなかったのだ。

 私はこれまで、アルバイトばかりを断続的にやりながら生きてきていた。親は離婚し、母親ももう他界していた。母親が他界したのは私が高校3年生の春で、私の家族にはほかに小学生の妹がいた。母さんのお葬式には、モンシロチョウがいっぱい飛んでいて、私と小学生の妹は、そのモンシロチョウを笑いながら追いかけた記憶があった。その時だけは、どういうわけか哀しさと寂しさが忘れられたのかもしれない。あるいは、それ自体が幻想であり、私の記憶違いなのだろうか。

 1か月あまりが経ったある夕方だった。その日は朝からずっとあの女性の姿は見られなかった。
 「今日は、あの人来てないわね」
 私はあすかに言った。
 「あの人って?」
 あすかは首を傾けた。
 「ほら、毎日あの席に座ってる人でさ・・・」
 私はあすかにその女性の特徴を何とか伝えようとしたが、同僚のあすかにはまるでわかってもらえなかった。
 「そんな人、いてましたっけ?」
 彼女は、遠い昔に一学期だけ在籍した転校生の顔を思い出そうとするかのような、そんな表情をしながら首をひねっていた。
 いつも女性が座っていた席は、今は何かの特等席のように残されたままになっていた。
 自分にしか、見えていなかったのだ。
 私は、ふと確信に近い感覚でそう思った。あれだけ毎日来ていたのに、あすかがそれに気づかないはずはなかったし、その女性のことをあすかが話題にしないこともおかしかった。彼女はそんな話題が大好きなのだから。
 どうして、私にだけ見えるのだろうか? そして、どうして見覚えがあるように思えるのだろうか? いや、そもそもそのようなことがあり得るはずないのではないか?
 午後5時になり、私たちは窓口を片づけ始めた。そとはまだ明るかったが、少し雨が降り始めたようだった。
 片づけをしながらふと見ると、いつのまに現れたのか、いつもの席にあの白髪の女性が座り、何かパンフレットのようなものを眺めていたのである。
 私が彼女の方を見ていると、彼女は顔を上げ、一瞬だけではあったが私と目が合ったのだ。私は、瞬きを忘れたかのように彼女の顔をじっと見つめた。その瞬間に、一体彼女が何者だったのか、私は自分の記憶のかけらに触れたような気がしたのだ。私の中に蘇ったそれは、遠く淡い、靄のかかったとても不確かな映像のようなものだった。私は、その記憶の袖を離さないよう、そして必死に手繰り寄せようとした。とても懐かしく、とても大切なものに思えたのだ。
 私は、彼女を見つめ続けたが、彼女は視線を下に向けたまま、再び私の方を見ようとはしなかった。
 そしてやがて、私の中に蘇りそうになった記憶の光は、あっけなく霧に中に消えていくように見えなくなってしまったのである。
 雨の音が急に大きくなった。建物の外で降る夕立が、突然激しく降り始めたのである。
 「すごい雨・・・」
 あすかがつぶやいた。私は外を見やった。激しい雨にもかかわらず、空は不思議と明るかった。
 「本当に」
 私は言った。そして再び向き直ったときにはもう、彼女の姿はどこかに消えていたのだった。



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