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記事一覧
【短編小説】オリオンと月の弦
間違った電車に乗ってしまった。
車内がやけに空いている。なんだかおかしいなと気づいたときにはもう、扉は閉まったあとだった。
急行列車に乗るはずだったのに、何かに心がとらわれていたようで、その時ホームに入ってきた各駅停車の列車に考えなしに乗り込んでしまったのだ。
ーーー早く帰り着きたいときに限って・・・くそっ・・・
仕事がちょうど繁忙期に入り、この1週間は毎日帰りが遅くなっていたのだ。
【短編小説】『詩と暮らす』から始まる小説:Moon light
詩と暮らすというのは、まさにあの先輩のことだった。
大学時代、ぼくらは文芸部という、他の学生たちから見れば得体のしれないであろうサークルに属していた。
部室の中は、いつもタバコの煙とコーヒーの匂いの入り混じったような空気に満ちて、西陽が指す頃には妙に美しい靄のような光に支配されるその空間で、あるものはワープロをうち、あるものはパソコンで文書を編集し、あるものは部室にあるラクガキノートのよう
【短編小説】海の向こう
クモが出た。
夜、2階の部屋から扉を開けると、目の前の白い壁紙に大きめのクモがはりついていた。長くて細い10本の足を大きく広げ、一瞬だけその足のどれかをピクリと動かしたかのようにも見えたが、それからあとはじっと身動きをしなくなった。
隠れようもない白い背景の上で身を潜めるようにしながら、その複眼は静かにこちらの動向をうかがっているのかもしれない。あるいはどこか別のところを必死に見つめながら
【短編小説】ホテル・カリフォルニア
あの男が残したのは車だけだった。
冬のまだ夜が明けきらぬ頃合い。
私は真っ赤な旧型のジープに乗り込み、車の量が少ない明け方の道路を走りつづける。しかもときにはブレーキをできるだけかけないようにしながら、尋常ではない速さで疾走するのだ。
家では、ベビーベッドの柵の中で赤ん坊のマヒロが眠っている。私は、薄暗い部屋でマヒロの寝顔をそっと見下ろす。赤ん坊はすやすやと寝息をたて、ときどきその小さな
【ショートストーリー】 空白 〜 ブランク 〜
そのブランクは、まるでエアポケットのように突然に私のもとに訪れた。
ちょっとした谷間に入り込んだ仕事のスキマを縫い、その日は午前中の休暇をとることにしていた。
毎夜、ささなければならない何種類もの目薬のひとつが、もうひと月ほど前から切れたままになっていた。
暗闇は足を忍ばせながらではあるが、しかし確実にやってくる。それがやってくるのを、無駄な抵抗と知りつつも少しずつでも先延ばしにしていか
【短編小説】#わが子 (2/2)
翌日、病院から出産の日取りが決まったと連絡があった。その夜も夫婦は部屋で寄り添いながら座り込んでいた。ストーブ上のやかんの蓋がカタカタと鳴っている。夫の隣では、結がこたつに入りながら静かに寝息を立てていた。
出産は明日になった。時間がかかる事があるので、明日の午前中から病院に来てほしいとのことだった。
二人は黙りこくったまま、じっと結の寝顔を眺めていた。結の傍らには、古びた人形があった。景子
【短編小説】#わが子 (1/2)
廊下に面したアパートの換気扇を通して肉を炒める匂いがもれ漂ってくる。摺りガラスの向こうに淡い影が揺れる。
浩介はドアの前に立ち、呼び鈴を三回鳴らした。そのとたん、部屋の中から女の子の声がした。
「パパ」
その声と同時にドタドタという足音が近づいてきて、そしてカギの開く音がした。
「ただいま、結」
ドアを開けるとそこに待ち受けていた娘を抱きかかえ、浩介は部屋の中に入っていった。
「ちょ
【短編小説】なつ 〜夕暮れ、一番星
夏の終わり、大阪の小さな町の細い路地、四人の少年たちが、細く長く伸びた影をゆっくりと引きずりながら帰ってきた。路地の角を曲がり、西側の稜線を夕日に朱く染めはじめた親しげな里山を背に坂道を下ってくる。ランニングシャツから出た細い腕は、どれも真っ黒に日焼けして、長く暑かった夏の日差し、そして楽しくもはかなかった夏休みの思い出を雄弁に物語っている。
路地の角から少し上がったところに、広い草むらがあ
【短編小説】未完の小説
下宿の大家は年老いた男だった。
古びたアパートの周りは、山や田んぼに囲まれ、夕方になると部屋の窓から山の向こうに日が沈んでいくのが見えた。秋には山は燃えるように色づき、冬には静かに雪が積もった。
夕暮れ時だった。
隣の部屋に住む夫婦が口論をする声が聞こえてくる。彼ら夫婦は、神秘的ななにかに深く心を囚われているようでーーあるいは考えようによっては何からも開放されているのかもしれないがーー
【短編小説】ファゴット奏者
スマートフォンの画面に集中していたせいで、知らず知らずのうちに今自分がどこにいるのかという認識を失ってしまっていた。
「おい、佐藤!」
突然の声に顔を上げると、上司がぼくの横にあぐらをかいてビール瓶を傾けようとしていた。ぼくは反射的にコップを差し出しビールを注いでもらい、それから仕方なく上司の持つコップにもビールを注ぎ返した。
「飲んでるかぁ?」
上司は言った。
「飲んでますよぉ」
ぼくは
【短編小説】サッカー少年
定岡靖幸は嘱託職員として市の福祉の仕事についていた。今年で2年目だった。契約が1年ごとであるため、あと数か月もすれば来年度も雇ってもらえるかどうかが上司から言い渡されるはずだった。
12月のある日、福祉の窓口に一人の年配の女性が現れた。女性は窓口のカウンターで自分の住んでいる地域を告げると、対応していた職員が振り返って靖幸を呼んだ。
「あなたの住んでいる地区の担当の定岡です」
狭い面談室の
【ショートショート】傘
ぼくと彼女とは道端で時々出会う程度だ。仕事帰りや、昼休みに安食堂へ出かけるとき、ちょっとした仕事の息抜きなどで駅前を軽く散策するときなんかに彼女と出会うことがあるのだ。
彼女のことは実際のところ、まるで知らない。だからと言って、全くの他人でもないらしいのだから、少々困ってもいる。はじめて会った時に、彼女はぼくに、この辺で働いてるの?、と聞いてきた。
それ以来、ぼくと彼女とは中学時代の同級生と