【短編小説】なつ 〜夕暮れ、一番星
夏の終わり、大阪の小さな町の細い路地、四人の少年たちが、細く長く伸びた影をゆっくりと引きずりながら帰ってきた。路地の角を曲がり、西側の稜線を夕日に朱く染めはじめた親しげな里山を背に坂道を下ってくる。ランニングシャツから出た細い腕は、どれも真っ黒に日焼けして、長く暑かった夏の日差し、そして楽しくもはかなかった夏休みの思い出を雄弁に物語っている。
路地の角から少し上がったところに、広い草むらがあった。奥には僅かに水の流れる小川や、浅い小さな井戸などがあった。そこはサワガニやザリガニが住み、夜にはオケラが鳴き、夏のはじめにはヒメ蛍がゆらゆらと飛び交う、彼らの絶好の遊び場だった。
井戸の脇には一本の年老いた楠がそびえたち、夏の盛りには大量のクマゼミやアブラゼミが、生き急ぐかのように止むことなく鳴き続ける。
だが、そんな彼らのちっぽけな楽園も、いつか近い将来には取り壊され、無機質なマンション群が建ち並ぶことになるのだ。そしてその豊かな風景は、彼らの記憶の中でのみ静かに生き続けることになるのだ。
彼らはその楠の老木のそばに、ビニールと木の枝で、突風が吹けばたちまちにして吹き飛ばされそうな小さな秘密基地をこしらえていた。
今日の半日、彼らはそこで過ごした。チャンバラやビー玉をしたり爆竹を鳴らしたり、そして短い夕立の間には、秘密基地の中で、少し大人ぶってトランプでマッチ棒を賭けてカブをやったりした。
秘密基地を創ることは、彼らにとって夢想の具現化のひとつであったのだ。
瞭は今、小学四年生だった。ひとりっ子で、父はいつも夜遅くならないと帰って来ず、母も近所に住む親戚と一緒に食料品の商店をやっていて、親戚を車で送ってから帰って来るので、家に着くのは大抵暗くなってからだ。
彼は、五年生の広志と大の仲良しだった。
広志の家は瞭の家の隣で、左官屋だった。広志と六年生の兄和郎は、いつもケンカばかりしていた。兄弟のいない瞭は、彼らのケンカを見て兄弟ゲンカとはあんなにも凄いものなのかと驚くほど、彼らの争いは凄まじかった。
そしてケンカをしてはいつも、よく太った、故郷の広島弁の抜け切らない母親にきつく叱りつけられた。
それからもうひとり、瞭と同い年の優がいた。優は泣き虫だけれど、庭に池のある大きな鉄筋の家に住み、マンガの本をたくさん所有していた。そして何より、優はピカピカの天体望遠鏡を持っていた。それで彼らは、今夜優の家の庭に集まって土星を見る約束を交わしていた。
角を右へ折れると、瞭の家とその西隣に広志と和郎の家が並び、どちらの家の壁も、夕日に照らされてオレンジ色に染まっている。
どこかでヒグラシが鳴く声が聞こえ、空き地に植わった葱坊主は微風に吹かれてさらさらと揺れた。
広志の家からカレーのいい匂いが路地の方までただよって来た。
白いトラックが一台、坂を下りて曲がって来た。それは彼らの方へやって来ると、クラクションをプッと短く鳴らし、空き地の前で停車した。
左官をしている広志と和郎の父が仕事を終えて戻ってきたのだ。彼は、白い綿のランニングシャツに汚れた作業ズボン姿で、トラックから降りてきた。少年たちにとって、その姿はなぜかとてもかっこよく、まぶしく映った。
「おかえり、お父さん!」
広志と和郎が手を振り、父の方へ駆け寄っていった。
「よお、ただいま」
彼は甲高い声で言って、笑顔で右手を上げた。そして、
「みんなにおみやげあるぞ」
と、トラックの荷台を指さした。瞭が背伸びをして荷台を覗いてみると、そこにはガラクタのような、しかし少年たちにはすばらしい宝物に見える小さな様々な形をした木ぎれがたくさん転がっていた。彼らは歓声をあげて荷台に飛び乗った。
「おっちゃん、これもらってええの?」
瞭は言った。
「おお、仕事場で余ったやつ持って帰ってきたんや。もう全部いらんやつやから、何ぼでも好きなだけ持って帰り」
そうおじさんは言うと、カギのいっぱいついたキーホルダーをじゃらじゃらさせながらーーこれもなぜか彼らにはかっこよく感じられたーー家の中へ入っていった。
突然広志が節をつけて歌うように叫んだ。
「一番ぼーしー見いつけた!」
トラックの荷台で木切れを選んでいた他の三人は、立ち上がって一斉に空を見上げた。
「どこ?」
「ほら、あそこ!」
広志は北東の空を指差した。
藍色でまだ幼い夜空に、星がひとつささやかに瞬いていた。
「あっ、ほんまや、あった!」
瞭が叫んだ。そしてその直後、瞭は南東の空に別の星を見つけた。
「にぃ番ぼーしー見いつけた!」
瞭は声を上げた。すると和郎も競うように、
「三番ぼーしー見いつけた!」
と叫んだ。
誰かが声を上げるたびに、彼らは一斉にその星を見上げ、そして小さな感動を覚えた。
優だけがまだ見つけられず、悔しい気持ちで天空を見回していたが、東の空に目を向けたとき、負けず嫌いの彼の顔にぱっと喜びの色が浮かんだ。
「あっ、四番星!」
みんなもその指差す方向を見たが、それらしき星は見当たらない。
「どこに?」
誰かが非難の声をあげたが、優はあたかもその非難を待ちかねていたかのように、俄然得意げな表情になった。
「ほら、あそこ! あれやん!」
その方向には、うっすらとその輪郭を明確にしつつある細い三日月があった。
「もしかして、お月さんか?」
広志は不満げに優に言った。しかし、優はまんまとみんなを罠にかけたというような優越感たっぷりに、
「そうや。月も星の一種やもん」
と、胸を張った。
「そんなんあかん! 月も星かも知れへんけど、月は別や。決まってるやん」
と三人は咎めるように言った。
優は一瞬反論しようとしたが、その時にはもう悔しさがこみ上げてきていた。優はうつむいて半べそをかいてしゃがみこんだ。そして木片を手でむやみにかきまぜ、ぼそぼそと独り言をつぶやきながらそっと目尻をぬぐった。
「マサ君、もうごはんできたから帰っといで」
ちょうどそのとき、優の母親が彼を呼びに来た。優は鼻を大きくすすりながら立ち上がると、じゃあ帰るわ、と言ってトラックから降りた。
少年たちは、優の丸い後ろ姿に向かって声をかけた。
「今日そしたら九時位にマサ君とこ行くからな」
すると優は振り返り、ついさっきまでべそをかいていたことなどすっかり忘れたかのように、
「わかった。じゃあ天体望遠鏡、それまでに用意しとくわ」
と、けろっとして帰って行った。
夕空は見る間に暗くなり、夏の夜の星々がいつの間にかじんわりとにじみ出だしてくるかのように現れだした。
路地の角にある街灯にも明かりがともり、くすんだ光をアスファルトに投げかけた。雑木林の黒い影が、まるで生き物のように浮かび上がりはじめた。
広志と和郎の家から、カレーの匂いが一層強くただよってきた。
「あんたらもうすぐ晩ごはんやけん、早よ帰って来んさい」
前掛けをつけた広志の母親が呼びに来て、バイバイと言って彼ら二人は帰って行った。
トラックの上にひとり取り残された瞭は、適当な木切れを両手にいっぱいに抱えて、自分の家のガレージまで置きに行った。
彼の母親はまだ店から帰って来ない。もうそろそろ店を閉めて車に乗っている頃だろうか。
瞭はガレージから、グローブとボールを持ち出して、コンクリート壁を相手にひとりボール投げをはじめた。
しばらくすると、広志と和郎が一緒にお風呂に入る音が漏れ聞こえてきた。彼らの父親も一緒に入っているようだ。小さな窓から彼らのはしゃぐ姿がまるで影絵のように写し出され、そして彼らの楽しそうに叫ぶ声が瞭のいる路地まで聞こえてきた。
瞭の家には明かりがいまだ灯らず、隣の家から漏れる明かりと、わびしく照らす街灯を頼りに、瞭はひたすらボールを壁に投げ続けた。
一匹の大きな蛾が、街灯の明かりに何度も虚しくぶつかっている。
空には銀細工のような、鋭く研ぎ澄まされた細い月が浮かんでいた。
突然、瞭の心に寂しさがこみ上げてきた。顔が歪み、涙が溢れてきそうになったが、彼はそれを、硬いつばをぐっと飲み込むようにして必死にこらえようとした。
自分の家だけが、暗く、どことなく沈んでいるように見える。
ひとりで待つことは、いつものことで慣れているはずなのに、今日は母の帰りがいつもより遅いような気がする。気持ちに漠然とした不安がかすめる。
瞭は、ボールを壁に向かって投げ、そしてそれをキャッチすることに気持ちを集中させた。
ボールが壁にあたる音と、グローブの中に入る音が、規則正しく、時には乱れながら寂しい路地に響きわたる。
夜空の星々も、みんなで眺めたときに比べてわずかに傾いている。
相変わらず一匹の蛾がしきりに街灯にぶつかり続けている。
と、やがて坂の上のほうから車のエンジン音が聞こえてきた。それはだんだんと下ってきて、ヘッドライトの光が道を照らしはじめる。
瞭は額から流れる汗を手の平で拭い、車のエンジン音のする方を見やった。
車は角を曲がり、そのヘッドライトが瞭を真正面からまぶしく照らしつけた。ダイハツの黄色い小型車が、ゆっくりと瞭の方へと進んでくる。それは丸いライトで、正面から見るとウサギの顔のように見えると言って、瞭のお気に入りの母の軽自動車だった。
瞭はグローブを置き、息をはずませて車の方へ駆け寄った。
「お母さん、おかえり!」
小さなボンネットに両手をつき、飛び跳ねながら瞭は弾む声で叫んだ。
母はあわててブレーキをかけ、窓から顔を出すと、
「危ないから、下がっとき! ホラ、車ガレージに入れるから」
と言い、何度も切り返しながら車をガレージへと入れた。
サイドブレーキを引くギギッという音、そしてヘッドライトが消え、母は車から出てきた。車と同じでとても小柄な女性だ。彼女は笑いながら、
「ごめん、ごめん。今日ちょっと遅なってもうたわ。早よごはん作るからな」
と言って勢いよく車のドアを閉めた。
「今日の晩ごはん何?」
瞭が聞くと、
「今日は餃子やでぇ」
と彼女は言った。
瞭は小躍りして喜んだ。母の作る餃子は瞭の大好物だった。
「時間かかるから、餃子包むの手伝ってくれるか?」
瞭は舌を出して不満顔をしたが、彼女は意に介さない様子で、
「たのむで!」
と言って車のカギをかけると、疲れのかけらも見せずに急いで家の中へと入って行った。
瞭はグローブを路地まで取りに戻り、そして自分の家を振り返った。
玄関にはもう外灯がともり、家の中はすでに明るい光で満たされていた。
瞭は母親の後を追いかけるように、玄関に向かって駆け出して行った。
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