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【短編小説】未完の小説

 下宿の大家は年老いた男だった。

 古びたアパートの周りは、山や田んぼに囲まれ、夕方になると部屋の窓から山の向こうに日が沈んでいくのが見えた。秋には山は燃えるように色づき、冬には静かに雪が積もった。

 夕暮れ時だった。
 隣の部屋に住む夫婦が口論をする声が聞こえてくる。彼ら夫婦は、神秘的ななにかに深く心を囚われているようでーーあるいは考えようによっては何からも開放されているのかもしれないがーーぼくがここに部屋を借りた当初にはしきりにぼくをバーベキューに誘い、彼ら二人が信じる宇宙について詳しく話してくれた。しいたけや山芋を食べながら、彼らは私に、君の精神は宇宙ではかなり位が高い方かもしれないな、ということを真剣な口ぶりで伝えてきた。そしてふたりとも驚くほど大量の野菜を食べた。
 「ぼくたち夫婦はね」夫は言った。「前世からの繋がりなんだ」と。化粧っ気のない奥さんは夫の隣でにこにこと笑っていた。
しかし最近では、アパートの薄い壁を通じて彼らの罵り合う声ばかりが繰り返されていた。

 ぼくは描きかけの静物画を部屋に残し、少し風に当たろうとアパートの外に出た。あぜ道の向こうに、闇に紛れる寸前の山並みがあった。
アパートにはぼくの他にも何人かの学生が住んでいた。古くて、ほとんど壊れそうにも見える2階建てのアパートだった。隣の夫婦の怒鳴りあう声はもう聞こえなくなり、そのことが余計に静けさを深めているようにも思えた。
大学からは少し距離があったが、家賃が安いところがこのアパートのいいところだった。
 たばこを吸っていると、1階に住んでいる大家さんが部屋から出てくるのが見えた。
 「どうしたんや、こんなところで」
 彼はぼくのところまで歩いてくると言った。
 「いや、気晴らしにちょっと」
 ぼくは答えた。
 「そうかあ。今日は涼しいて、気持ちがええなあ」
 ぼくはたばこを吸って、そしてゆっくりと煙を吐き出した。その時、あの夫の怒鳴り声が再び聞こえてきた。まるで間欠泉のように静かになったり噴出したりするのだ。
 「すまんなあ、佐伯くん。隣の家うるさいし、落ち着かんやろう」
 ぼくは苦笑いをした。
 「今日もしばらくは収まらんかもしれんな。ちょっと私の部屋に来て飲みながらやり過ごすか」
 大家さんは言って、1階の端にある彼の部屋にぼくを招き入れた。
 狭い玄関でサンダルを脱ぎ、ぼくは大家さんの部屋に上がった。間取りはぼくの部屋とほぼ同じようだったが、物が多いために狭い部屋が余計に狭くなっていた。ガラクタのようなものも多くあるように思えた。
 畳の上にあるこたつを指しながら、
 「まあ、そこに座ってちょうだい」
 と彼は言った。
 ぼくはあぐらをかいて座った。畳が柔らかくなって、少したわんでいるように感じた。ぼくは何となく部屋を見渡した。
 大きめの食器棚や本がたくさん並んだ本棚があった。小さい台所には書き物机のようなものがあり、数冊のノートが置かれていた。
 「物がようけあるやろ。執着心が強いんかしらんけど、なんか物が捨てられんへんねんな私は」
 彼は言った。
 大家さんの年齢はよく分からなかったが、もう大分と老人だろうとぼくは思っていた。背が低く、顔にはまるで彼が生きてきた年月そのもののような深いシワがくっきりと彫り込まれている。
 老人は缶詰や乾き物のつまみとともに、芋焼酎を持ってきた。
 「今は京都に居るけどな、私の出身は鹿児島なんや。言葉もすっかり関西弁になってもうたけど、心はまだ鹿児島にあるんや。この芋焼酎、生まれ故郷の町のやつなんや」
 彼は2つのコップに焼酎を入れて、ポットのお湯でお湯割りにした。老人は、目を細めながら焼酎を一口飲んだ。
 「木谷さんとこの夫婦、大丈夫ですかね?」
 ぼくは何を話していいか分からず、とりあえず隣の夫婦のことを聞いた。
 老人は、スルメを噛みしめるようにかじりながら、焼酎を飲む。
 「芋焼酎を飲むとな、自然と子どもの頃に育った山や川のことを思い出すんや」
 彼はそう言った。そして、
 「あの夫婦な、離婚するらしいわ。それでもうすぐここから引っ越すらしい」
 ぼくはコップを持ち上げ、またそのままテーブルに戻した。
 ぼくは、バーベキューで彼らが美味しそうに野菜を食べていた時の顔を思い出した。そして、自分たちの関係は前世から繋がっているのだと話していた時のふたりの疑いのない顔を思った。彼らの話す突飛な物語では、夫の前世は惑星間を往復する宇宙船のパイロットで、妻の方は金星に住む高貴な女性だったらしい。夫の語る話がどんなに風変わりで珍妙なものであったとしても、奥さんはいつも真剣な目をしながらその話を聞いていたのだ。そんな彼らが別れるというのだから、とても不思議な感じがしたし、なんだかそれはあってはならないことのように思えた。
 「佐伯くんはたしか、油絵が専攻やったよな。最近はどうなんや?」
 老人は聞いた。
 「いや、なかなか自分で納得いく絵が描けないでいます。実はこの先どうしようか迷ってるところなんです」
 ぼくは言った。
 老人は、うなずきながら少しづつ焼酎を飲んだ。
 「むつかしいもんやなあ」
 老人は独り言のようにつぶやいた。ぼくはたばこに火をつけた。そして老人に勧めた。彼は一旦は断ったが、ふと思い直したかのように、やっぱりもらおうかな、とたばこを受け取り、吸い始めた。ぼくと彼のたばこの煙が部屋の中に霧のように満ちてきて、まるで現実ではないどこか別の場所にいるように思えてきた。ぼくは、自分の絵の原点のことを思った。ぼくがまだ幼かった頃、母親がぼくの絵を褒めてくれたこと、それが最初だったのかもしれない。その頃からぼくはずっと絵を描き続けてきたのだ。

 ぼくらは時間も忘れて飲み続けた。いつの間にか焼酎はなくなり、日本酒を飲み始めていた。
 酔いが深まるに連れて、老人は自分のことを話すことが多くなってきた。老人は多くを飲み、そして多くを語った。
 老人がこのアパートを始めたのは、15年ほど前だったらしい。
 老人は少し席を立ち、書き物机から何冊かのノートを持ってきた。学生が使うようなどこにでもあるノートだった。老人は、節くれだった太い指でページをペラペラとめくりながら言った。ノートには、小さな文字がびっしりと隙間なく書き込まれていた。
 「私はね、ここにずっと小説を書き続けてるんよ」
 彼は言った。下宿をやる前は、彼は大学の清掃員だったらしい。彼は毎日毎日、大学の清掃を繰り返した。休むことなく彼は懸命に働いた。
 「私は妻と二人暮らしやった。でも子どもがいなかったんや。よく妻と、定年になったら学生たちが住んでくれるようなアパートをひとつ買いたいよな、って話してたんや。そのために必死で金を貯めた。学生たちが私らの子どもみたいになると思ってたんかもしれんな」
 ぼくは黙って酒を飲んだ。彼はたばこの煙を吐き出した。

 仕事が定年になる数年前に、彼はこの山あいにあるアパートを見つけた。そして、定年後はきっとここで下宿をやろうと妻と約束したのだ。しかし彼の妻は、彼の定年前に病で亡くなってしまったのだ。
 「私はしばらく、何をする気力も失ってしまった。長年二人で暮らしてきて、そこで急に一人ぼっちになるのは悲しいもんや。稼ぎも少なかったから、私らの住んでる部屋は小さかったけどな、妻がおらんようなったら、その部屋が急にえらい広く感じるようになった」
 彼はその空間を酒で埋めていったという。酒で埋めながら彼女を思い、そして故郷の土地を思い、そして気がつけばいつも、なぜか自分の手を、太く変形し、土のような色になった手のひらをじっと見つめていたのだ。
 「私らは生活するので精一杯やったからな、ふたりで旅行に行ったとかそんな思い出は殆どないねん。質素に暮らしながらようやっと買ったこのアパートはな、私と妻が唯一手に入れた形のあるもんかもしれん。そんな気がしてるんや」
 そう言って、老人は部屋の周りに視線を巡らせた。こんなボロボロで、古びたアパートやけどな、と小さく笑った。なんとなくぼくも部屋の中を見渡してみた。本棚に1枚の小さなサイズの写真が立てかけられていた。おそらくそれが彼の妻なのだろうと思った。かなり若い頃の写真のようだった。
 「ここに来てから、私は小説を書き出したんや。大学の清掃員やった頃に小説を書いてる学生と出会ったし、妻も本が好きやったからな」
老人は目を細めた。そして本棚を眺めながら時間をかけて煙を吐いた。
 「私らには子どもがおらんかった。妻も私も子どもはほしかったんやけどもな。そやから、私らに子どもがいたという小説を書くことにしたんや。私と妻、そして息子が一緒に暮らしていく、想像でもいいからそんな世界がもしもあったらなあって思いながらな」
 「読ませてもらえますか?」
 ぼくは聞いた。老人は笑って首を振った。誰かに読んでもらうために書いてる訳ではないのだ、と言った。
 老人はこの15年もの間、この小説を、ただこのひとつの物語だけを書き続けてきた。書いては消し、また書いては消しを繰り返しながら。これは彼にとって、終わることのない永遠の作業なのだ。彼はこれからもずっと、この物語を書き続けなければならないのだ。
 「私らの生きてきた軌跡をひとつひとつをなぞりながら、息子と私達の生活を想像してな、まるで石を積み上げていくみたいに、訥々と書いてるんや。そやけど、なんぼ想像しても、それはやっぱり想像にすぎんのやけどもな・・・想像にすぎんのはわかってるんやけど、それでも書き続けてとったらな、なんかな・・・」
 老人は、自分の手を眺めた。その手がまるで自分の人生の縮図でもあるかのように。
 彼は、ノートを開きそのページをしばらく読みふけった。ページをめくり、そしてまためくった。文字は何度も太い線でかき消され、また新たに書き加えられ、まるで苦悩する感情のように渦をまいていた。しかしそれを眺める彼の瞳には、ある種の輝きのようなものが宿っているようにも見えたのだ。

 「しょうもない話、聞かせてもうたな」
 老人は言い、新たにまたたばこに火をつけた。ぼくも同じようにたばこを咥えた。酒もつまみももうほとんど無くなっていた。宴はいつの間にか終わっていたのだ。
 彼はコップの底に残っていた酒をあおり、うまそうにたばこの煙を吐き出した。
 ぼくは飲み過ぎで少し気分が悪くなっていた。
 「ここで寝てもいいけど、どうする? 帰るか?」
 ぼくはこたつに手を付き、ふらつく体を支えながら立ち上がった。そして帰ると伝えた。
 吐き気とめまいがする。大家さんはぼくを支えながら外まで出てきてくれた。
 「もう彼らも静かになったみたいやな」
 アパートの2階を見上げながら彼は言った。2階の彼らの部屋にはまだ明かりがついていた。
 「気いつけて帰りや」
 老人は手を上げて笑い、バタンと音を立ててドアの閉めた。
 ぼくは木に寄りかかるようにして横たわった。風が頬にあたり、木の葉が擦れ合う音が聞こえる。どこかで鳥が低い声で鳴いていた。
 頭が割れるように痛く、世界は容赦なくぐるぐると回っていた。意識が次第に遠のくなか、ぼくは仰向けになった。山の上に大きな月が出ていた。それはまるで、非現実的なくらいに白く明るく輝いていた。





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