【短編小説】海の向こう
クモが出た。
夜、2階の部屋から扉を開けると、目の前の白い壁紙に大きめのクモがはりついていた。長くて細い10本の足を大きく広げ、一瞬だけその足のどれかをピクリと動かしたかのようにも見えたが、それからあとはじっと身動きをしなくなった。
隠れようもない白い背景の上で身を潜めるようにしながら、その複眼は静かにこちらの動向をうかがっているのかもしれない。あるいはどこか別のところを必死に見つめながら私という敵と目があわないようにしているのかもしれなかった。
朝グモは親の仇だと思っても殺すな、夜グモは親と思っても殺せ。どういう理屈からかは分からないが、私の家ではそう伝えられてきていた。しかし、今はそんなのはただの迷信であることはわかっているのだけれど、クモを見るたびに私はその言葉を思い出してしまうのだ。
まるで動こうとしないクモを見下ろしながら、私はふとそのクモを逃してやろうかとも考えた。しかし、その時に別の思いがよぎった。
このクモは、もしも今逃してしまえば夜中に隣にある娘の寝室に忍び込み、眠っている娘の顔の上を我が物顔で這い回るかもしれない。
そう考えると私はとっさに部屋に戻り、新聞紙を手に取ると叩きやすいように丸めながら再びクモの前に戻ってきた。
クモはまだ、同じところにじっと息を潜めていた。
このクモはやはり叩き殺さなくてはならない。私は娘のことを一種の言い訳のようにしているのに罪悪感を覚えながらも、新聞紙を握りしめ、まるでスナイパーのようにクモに意識を集中した。
クモがこちらを諦めたかのように見あげているのがわかるような気がした。しかし、やつは決して諦めてはいないのだ。私がミスを犯せば、すかさずクモは物かげへと逃げていくのだ。そのためにも、決してミスは許されないのだ。
私はクモの上に照準を合わせ、できるだけ手首をきかしながら素早い動きで新聞紙をクモをめがけて振り下ろした。
新聞という名の武器はクモの体の芯は捉えなかったけれど、それでもクモは半死の状態で床の上にぽとりと落ちた。足を小さく丸め、それはまるで命乞いをするかのようであったけれど、そして考えてみればクモという存在はただ不快な生き物だという、私達人間だけの都合で生かされたり殺されたりしている、特に害をもたらすこともないとても小さな命であるのだけれど、私はその怯えるように小刻みに動くその体にトドメを刺したのだ。
死んだクモは、小さく潰れて床に転がっていた。
私は新聞紙でそれをすくい上げ、その死に様に、虚しさと、申し訳無さと、そしてなんだかよくわからない感傷のようなものを胸に抱いたのだった。
何かから命を奪うという行為は、相手がどのような存在であれ、何らかの痛みというか代償というかそのようなものを受け入れなければならないのかもしれない。
私は1階に下り、居間でくつろぐ妻と娘に向かって言った。
「でかいクモがいたから殺したで」
言いながら、なぜこのような報告をしなければならないのかとふと思ったが。
「ああ、それでなんかバタバタ騒いでたんか」
妻が言った。娘は無関心にスマホを眺めているだけだった。
「夜グモやったから」
クモと新聞をゴミ箱に入れたあと、手を洗いに居間から出ようとすると、さっきと全く同じような大きさのクモが再び玄関の壁にいたのである。
え、さっきのやつか? いや兄弟か?
私は一晩に2度もクモを退治しなければならないと思うと、気が重くなった。可愛そうではあるが、仕方がない。私は心を殺し、マシンにならなければならないのだ。
新聞紙を振り下ろすと、クモはさっと身をひるがえし、姿をくらませた。振り下ろすスピードがさっきよりも若干鈍り、クモに当たったかどうかも微妙だった。しかし、負傷して下に落ちたとすれば、ちょうどその下には脱ぎ散らかした服などが置いてあって、その中に紛れ込んだのかとその中もかなり念入りに探してみたけれど見当たらなかった。
私はため息をひとつついた。そして、探すのを諦めてなんとなくトイレに入ろうとすると、なんとトイレの床にさっきのクモがいたのである。おそらくさっきのやつだ、まさか3匹めではないだろう。
彼は生きていたのだ。
なぜだか私は、良かった、と思ったのだ。
私の姿を見たクモは、サササと動いてトイレの物かげに逃げ込んだ。体は半分以上見えているし、頑張れば叩くことは可能だったかもしれないが、私はもうこれ以上そのクモを追うことはできなかった。
トイレの電気を消し、一旦居間に報告に戻る。
「さっきのクモ、見逃すことにしたわ」
私は寝そべっている娘に言った。
「なんで?」
娘は聞いた。
「いや、もう叩かれへんようなとこに入っていったんよ」
「なんや、それやったら見逃したんじゃなくて、逃げられたんやん」
そう言って彼女は、ウウッとうめき声を上げて伸びをしたのだった。
そのあとすぐにトイレに行ったが、もうクモの姿はどこにも見当たらなかった。私は冷蔵庫から発泡酒を出した。そして最近出したばかりのこたつに足をいれて、発泡酒をコップに注いで一口飲み、いつもの習慣のようにテレビをつけた。
テレビではニュース番組をやっていて、その声は、海の向こうで戦争が勃発したことを告げていた。
読んでいただいて、とてもうれしいです!