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【短編小説】ファゴット奏者

 スマートフォンの画面に集中していたせいで、知らず知らずのうちに今自分がどこにいるのかという認識を失ってしまっていた。
「おい、佐藤!」
 突然の声に顔を上げると、上司がぼくの横にあぐらをかいてビール瓶を傾けようとしていた。ぼくは反射的にコップを差し出しビールを注いでもらい、それから仕方なく上司の持つコップにもビールを注ぎ返した。
「飲んでるかぁ?」
 上司は言った。
「飲んでますよぉ」
 ぼくは言ってコップのフチを下唇に当ててほんの少しだけ傾けた。
「佐藤くんはうちの工場にきてに何年になるんやったかなあ?」
「はぁ、今年で3年目年になりますね」
 ぼくは少し警戒しながら答えた。海老の天ぷらを食べ、ビールをグイっと飲み込みこんだ。
 宴会が始まってしばらく経つと、同僚や先輩社員たちは席を移り出し、色んな所でビールを注いだり注がれたりしながら何かを話している。出された料理の数々は、その主を見失ったまま器の上で静かに冷えていくしかない。そういえばぼくは始まってから今まで、ずっとこの席にあぐらをかいたまま居座っていた。
「もう3年になるか?」と長谷川は言い、ほら、とぼくにビール瓶を差し出すものだからぼくはまた注いでもらった。するとすぐ横から、いつの間に来たのか先輩社員の石巻さんが上司の長谷川からビール瓶をひったくって長谷川のコップにビールを勧めた。
 長谷川は嬉しそうにコップに残っていたビールをぐっと煽り、石巻に新しいビールを注いでもらっていた。
「おう、石巻くん、この佐藤くんはどうや? 頑張ってるか?」
「そりゃもう、彼はうちのホープですから」
「そうかそうか。そやけどな、」長谷川は言った。「佐藤くんは、なんというかちょっと覇気が足りんっちゅうか、元気がないっちゅうかな」
 長谷川は、1年前に営業の部門から現場に配属された人間だった。30人ほどの小さな工場だったが、営業と経理とそれから現場の部署があった。以前の上司が怪我で退職したあとにこの長谷川がやってきたのだ。
「まあまあまあまあ」
 石巻がなだめるように長谷川にビールを勧めた。ぼくは焼酎をグラスに入れて飲んだ。石巻は口を尖らせてひょっとこのような顔でぼくを見た。
「覇気、ないですか?」
 ぼくは長谷川に言った。
「そうや。もっと元気だして、目立たなあかん。思ってることあったらちゃんと主張してな」
 ぼくは焼酎を飲み込んだ。
「ちゃんと言うことは言ってるつもりですけども」
「そうか。でもな、それが全然俺の方に見えてけえへんのや。なにも大人しいのが悪いとは言わんけどもな、もっと目立たな。アピールせな。俺、お前がどんな仕事のやり方してるか、全然わからへんからな」
「でも、それはどうかと思いますよ、ぼくは」
「何がや?」
 長谷川は顔を首ごと前に押し出すようにした。
「それは、長谷川さんが人のことを見てないということじゃないんですかね。人にはいろんな種類の人がいて、それぞれみんな性格とかが違うと思うんですよ。それを理解するのが上司なんじゃないですかね。目立つ人よりも、目立たない人の方にこそに目を向ける。上司ってそういうもんだと思うんですけどもね」
 ひょっとこのような表情をしていた石巻の目が、これまでに見たことのないくらい飛び出していた。彼はぼくの両肩に手をおいて
「ま、そのくらいにしとけ、お前、な」
とぼくをなだめようと必死になった。
「なんや、ちゃんと物言えるんやないか、こいつ。なあ」
 長谷川は石巻の方を向いて言った。
「佐藤のやつ、だいぶ酔っ払ってるんで」
 石巻はまた長谷川にビール瓶を傾け、長谷川はそれに応じてコップを差し出した。ぼくはまた自分で焼酎を入れて飲んだ。喉が焼けそうに熱かった。

 宴会が終わり、ぼくはひとり公園のベンチに座りながら缶コーヒーを飲んでいた。他のみんなは2次会でカラオケに行った。
 こういうところが、アピールが足りんってことなんだろうかな。
 焼酎のせいで少し頭がクラクラとしていた。
 公園のところどころに立つ電灯は、まるでそこから何らかの柔らかい粒子が優しく放出されているかのようで、その周辺の空間にぼんやりとした光の輪を作り出していた。
 その一つなかで、誰かが体をゆっくりと揺らしながら立っているのが見えた。先程から聞こえてくる、柔らかな音色はその人物が奏でているようだった。男性か女性かも判別できず、若いか年寄りかも分からなかった。ただ光の粒子を浴びながら緩やかに揺れていた。
 柔らかく低い音色。そこからは何かしらの温度を感じ取ることができた。どこかで聞いたことがあるような懐かしさを感じる響きだった。
「あれ、何という楽器なのか知ってる?」
 突然耳のそばで声が聞こえた。びっくりして振り向くと、いつの間にか年配の女性がぼくのすぐ後ろに立っていたのだ。彼女はぼくの耳に顔を寄せていた。彼女はわかるかわからないかぐらいの程度でそっと微笑んだ。
「知ってる? あの楽器の名前を」
 彼女は再び言った。
「いや、知らないです」
 ぼくは答えた。
「隣、座ってもいいかしら?」
 彼女は聞いた。彼女の声は囁くようで、しかし真っ直ぐにぼくの耳に響いてきた。
「あ、別に・・・大丈夫ですけど」
 女性はぼくの隣に腰掛け、ウエーブのかかった長い髪をさっと右肩に流した。彼女の耳があらわになった。しかしそこには耳の形はなく、ただそこには音を聞きとるための穴があるだけだった。
「驚いた、私の耳?」
 ぼくは首を振った。彼女は、別にいいのよ、生まれつきなの、と言った。
 年齢は50歳くらいだろうか、とぼくは思った。胸とお腹のあたりが少しだけふくよかで、あたたかい体温が伝わってきそうだった。
「あなた、仕事は何をしているの?」
 彼女は聞いた。
「工場で機械の部品を作ってます。主に飛行機とかヘリコプターの部品ですけど」
「へえ、技術やさんなんだ。すごい」
 彼女は口の前で両手を合わせた。
「技術やさんっていうか、どちらかと言うと職人に近いかもしれませんけども」
 ぼくは言った。彼女は静かにぼくの言葉を反芻しているみたいにゆっくりと首を振った。
 そして、
「ファゴットよ」
 唐突に言った。
「え?」
 彼女は小さく息を吐いた。そして、
「ファゴットって言うの、あの楽器はね」彼女は低く囁くように言った。それはまるで歌を歌っているかのようだった。
「ファゴット」
「そう。聞いたことある?」
「何となく聞いたことがあります」俺は戸惑いながら答えた。「でも実際にその音を聴いたのは初めてかもしれません」
「そう」
 くぐもった音色が耳に心地よく響いてくる。ぼくは缶コーヒーを手に取り、そしてそのまままた置いた。
「優しい音色でしょう、ファゴットって」
「そうですね。あの方、知っている人ですか」
 ぼくは聞いてみた。しかし彼女は何も答えなかった。髪が風にそっと揺れた。
「私の祖父が昔、ファゴット奏者だったの」彼女は言った。「ファゴット奏者ってこの国にはあまり存在しなかったらしいの。だから祖父はどこからも引っ張りだこで、色んな所のコンサートに呼ばれては全国を渡り歩きながら演奏をしていたの。祖父の腕は確かだったらしいわ。ま、あくまで祖父の話だけれどもね」
 そう言って彼女は笑った。
「私は、どうしてファゴットなんてマイナーな楽器を選んだの? って聞いたの。そしたらおじいちゃん、なんて答えたと思う?」
 彼女はさっとぼくの方を振り向いた。頭がくらくらした、もちろん焼酎のせいではなく。
「さあ、わからないです」
だよね、と彼女は笑った。
「別に理由なんかなかったそうなのね。学校で金管クラブに入ったときに、ファゴットだけが余ってたらしいの。それで仕方なくファゴットを吹くことになったんだって。でもちょっと不思議よね、偶然出会っただけのたったひとつの楽器が、その後のおじいちゃんの人生に大きく影響することになるんだものね」
 ぼくは黙って聞いていた。彼女の声は聞いていてとても心地よいものだった。電灯の下のファゴット奏者は体を揺すり、陶酔しているかのように吹き続けていた。
「でね、あるときおじいちゃんが私を自分の出ているコンサートに呼んでくれたことがあったの。その時私はまだ小学校の高学年のころだったかな。それはそれは大きなコンサートホールで、演奏する人もとても大勢いたわ。バイオリンやトランペット、チェロとかいろんな楽器があって、おじいちゃんと同じファゴットを吹く人も3人くらいいた。で、いざ演奏が始まってみると、それは大迫力で、痩せて背の高い指揮者は汗だくで、子供の頃の私はとても感動をしたのを覚えているの。でもね、そんな中で、おじいちゃんのファゴットの音は一切聴くことができなかったの。もちろんおじいちゃんは一生懸命吹いていたわよ。でもファゴットの音って、小さくて低くて、大勢のオーケストラの中に入ると、音がまるで聴こえないの。だから、コンサートのあとに私はおじいちゃんに、「おじいちゃんのいる意味ってないじゃん」って言ったのね。するとおじいちゃんは言ったわ」
『そうか、聴こえなかったか。それは残念だけど、でもな、それはそれでいいんだ。たとえ聴こえなかったとしても、おじいちゃんのファゴットはそこに存在する。それは音の調和をとるためだったり、音楽に厚みを出すためだとかにとても大事な役割を果たすことになってるんだ。ファゴットがあってはじめてあの音楽が完成するんだよ。あの中にいらないものなんて何ひとつだってない。みんながみんなを支え合ってる。オーケストラは、奇跡的なバランスでできているんだよ』
ってね。
 彼女は形のない方の耳をファゴット奏者に向け、その人が奏でる音楽をひとしきり聞いた。
「この世の中は、すべてが関わり合ってるんだって、その時初めて思ったの。この耳にしたって、小さいときはとても嫌で嫌で仕方がなかった。どうしてこんな耳に産んだんだって親を責めて、ずっと幼稚園にも学校にも行けなかった。でも、そのおじいちゃんの言葉を聞いて、こんな私の耳にも何か意味があるんじゃないかって、そう思ったの。大げさだけれど、私の心には、何かひとつ、ほんの小さなひとつでもいいから、素敵な贈り物のようなものが必要だったのね、きっと」
 ぼくは、まるで夢の中にいるかのように彼女の言葉を聞いていた。彼女は耳に手のひらをあて、おどけるような表情をぼくに見せた。
「世界はキセキのようなバランスで成り立っているのよ。オーケストラも、人も物も、この世界も、宇宙全体も・・・ま、おじいちゃんの受け売りだけどもね」
 そう言って彼女は目を閉じてファゴットの音色に耳を澄ました。ぼくも彼女に倣い、目を閉じてその優しい音色に聴き入った。心のなかで、何かがゆっくりと解き放たれていくような感覚を覚えた。
 しばらくして目を開けると、もうぼくの隣には誰もいなくなっていた。気がつけば、あのファゴット奏者の姿も消えていた。
 ただ、ファゴットの音色の余韻だけが、ぼくの耳の奥で静かになり続けていた。




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