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【短編小説】ある老人の一日 ⑤ (終章)


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 夕方になり、老人は部屋の中でひとり焼酎を飲んだ。アパートに住んでいる者はみんな出ていき、残っているのは自分だけになってしまった。もう誰の声も聞こえなかったし、自分の出す声や音が誰かに伝わるということもなかった。


 少し前に激しい夕立があり、ときおり湿気を含んだ風が、開け放たれた戸を通じて吹き込んできた。


 煙草に火をつけた後、ペットボトルから焼酎をカップに注ぎ入れた。鯖の缶詰が彼の夕食だったが、老人はそれにはほとんど手をつけることはしなかった。ペットボトルには安い焼酎がまだ半分くらい残っている。
 老人はラジオをつけた。何を聴くというのでもなく、ただラジオをつけることが習慣になっていたのだ。野球中継が始まっていたが、今ではまるで興味を失い、選手の名前さえ誰ひとりわからないようになっていた。


 煙草の煙と焼酎の透明な液体が混ざり合いながら体の中に染み込んでいき、彼の意識はゆっくりと混迷の中にさまよいはじめる。ちゃぶ台の上に横倒しになった状差しの中から、老人は一枚の古くなった写真を抜き出した。何度も繰り返し手に取ったため、その写真にはひどく皺がいっていた。色褪せた、皺だらけの小さな写真。
 そこには、若いころの老人と、詰襟の制服を着た彼の息子が写っていた。中学の入学式の写真だった。大きめの制服を着た彼の息子の手は、制服の袖の中に半分以上隠れ、上着の丈は膝のあたりまで長かった。その傍らには、背広を着た男が立っていた。ふたりとも笑顔だった。


 老人は、その写真を目の前に立てかけ、ゆっくりと焼酎を飲んだ。それから静かに煙草を吸った。アルコールと煙草の煙のせいで、写真が次第に歪みそしてかすんでいく。
 老人は時計を見やったけれど、壁にかかった時計はとうの昔に止まったままで、今が何時なのかもわからなくなっていた。長い夏の陽が、静かにゆっくりと閉じ始めていた。


 部屋は、次第に薄墨に満たされるように暗くなり始めている。

 ラジオからは野球中継が流れている。

 どこかでただ一匹、懐かしいヒグラシが声を限りに鳴いていた。


                       <了>

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