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歴史あれこれ

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歴史ウラ話集。表の歴史に隠れたような歴史のこぼれ話が大好物です。 妄想や独自の見解話などの収集帳。
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2022年6月の記事一覧

■【より道‐82】戦乱の世に至るまでの日本史_室町幕府の四職_京極氏

■【より道‐82】戦乱の世に至るまでの日本史_室町幕府の四職_京極氏

■承久の乱
京極の氏は、平安時代末期から鎌倉時代に活躍した、佐々木秀義(ひでよし)の孫、佐々木信綱(のぶつな)から始まります。

1221年(承久三年)後鳥羽上皇が、鎌倉幕府の執権・北条氏に対して討伐の兵をあげ「承久の乱」が起こりますが、佐々木一族は、兄弟で敵味方わかれて戦ったそうです。

といっても、長兄の佐々木広綱(ひろつな)はじめほとんどの兄弟は、後鳥羽上皇に味方をして敗戦したのですが、四男

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キャリア・クラッシス ③徳川秀忠

◆シリーズコンセプト

前回記事→キャリア・クラッシス ②豊臣秀長

noteで様々な知見を頂いている千世さんが徳川秀忠(以下、秀忠)のほか、戦国2世武将について記事にされてますので、ぜひご一読ください☆

初期 葵紋(画像引用元)

【歴史×キャリア】というコンセプトで、現代の私達のキャリア形成の参考にするのが目的です。

秀忠については、近年の研究が進んだことで『凡庸な二代目』から『次代への基

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奈良時代、「鬼」として滅ぼされた縄文王国・長野県の鬼無里(きなさ)

奈良時代、「鬼」として滅ぼされた縄文王国・長野県の鬼無里(きなさ)

・奈良時代、次々と姿を消していった日本各地の縄文王国
奈良時代、日本各地にあった古代王国は次々と姿を消していきます。
そのきっかけは、西暦645年に行われた「大化の改新」。
「大化の改新」とは、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足らよって行われた、大きな政治改革です。
まず中大兄皇子と藤原鎌足は、絶大な権力を持っていた蘇我家を倒し、その後、大王家を中心とする国家づくりに着手します。
彼らが目指し

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源頼朝と関東武士、本来の主従は逆?

源頼朝と関東武士、本来の主従は逆?

なぜ関東の豪族たちは頼朝を助けて鎌倉幕府樹立の手助けをしたのか?

平家の棟梁・平清盛には自分で一族の命運を切り開いたというカリスマ性を感じるのですが、
源頼朝に関してはさほどのカリスマ性もリーダーシップも感じられない。

大河ドラマ「鎌倉殿…」を観ていても、正直な感想として、
「豪族たちが協力し合って頼朝を暗殺してしまえばいいのに!」
と、しばしば思ってしまう自分がいます。

本来の主従関係はむ

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【短編】梨~父の日に

【短編】梨~父の日に

ここに7歳になる「お猿」という男子がいた。越中守山を離れ、従者を伴い籠に揺られること数日、加賀小松までやってきた。お猿は突然告げられて押し込められた籠から外の世界をぼうっと眺めていた。

小松殿こと丹羽長重はお猿の到着が待ちきれず城門の側まできてジリジリしていた。長重は齢30過ぎ、立派な体躯の割にどこか剽軽な面持ちのある優漢である。誰が呼んだか父と同じく「槍の米五郎左」。若い頃から父長秀の代わりに

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■【より道‐78】戦乱の世に至るまでの日本史_「佐々木一門」の整理②

■【より道‐78】戦乱の世に至るまでの日本史_「佐々木一門」の整理②

平安末期、鎌倉末期、建武の新政、室町初期などの中世のファミリーヒストリーを学ぶことによって、戦国期の動乱がより一層理解できて気がします。

やはり、日本の歴史は、天皇を中心に武士たちがつくった歴史で、一族を繁栄させるために、血縁や領地を広げてきました。武家の中心は、やはり、「足利一族」で、次に影響力をもったのが、「佐々木一族」だったと思います。

「佐々木一族」が「足利一族」に次ぐ、チカラを得るこ

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【234日目】西暦五百年の日本の人口

【234日目】西暦五百年の日本の人口

ご隠居からのメール:【西暦五百年の日本の人口】

>>聖徳太子の事をよくしらない。雄略天皇のお祖父さんくらいの人か
ね。

ーー『古事記』は、712年(和銅五年)に成立したわが国最古の典籍。

・雄略天皇の在位期間は456-479。
・聖徳太子は574-622。
・長谷部信連は1147-1108。

したがって、聖徳太子は雄略天皇から約百年後の人であり、長谷部信連は雄略天皇から約七百年後の人だ。

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歌人 平忠度(たいらのただのり)と右腕(その3 全3回)

歌人 平忠度(たいらのただのり)と右腕(その3 全3回)

忠度はね、薄らいでいく意識の中ではて西はこちらかやと体の向きを変えるとね、こうして静かに念仏を唱え始めたんだ。忠度の白い顔は青ざめていったんだよ。
忠澄はね、勢いあってこそ撃てる首も念仏を唱えられるとね。やりずらかったよ。
「名のある大将軍に違いあるまい。」
忠澄はね、首を撃つとその体を調べてみたんだよ。するとね、箙に結びつけられた短冊があったんだ。箙とはね、矢を入れて背中に背負っておく細長い入れ

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歌人 平忠度(たいらのただのり)と右腕(その2 全3回)

忠澄は大声で呼びかけたよ。それは、色白く、ひげをたっぷりとたくわえ、白月毛の馬にまたがって、赤地錦の直垂に黒糸威の鎧をつけて、兜をかぶりもしないでいる。名のある大将に違いなかったんだ。
「私は、お前の味方ぞ」
忠度は落ち着いて答えたんだ。そうさ。嘘を答えたんだよ。その時チラリと口元が見えてしまった。忠度は歯を黒く染めていたんだ。源氏には歯を黒く染めている者なんてなかったからね。平家の者に間違いなか

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歌人 平忠度(たいらのただのり)と右腕(その1 全3回)

歌人 平忠度(たいらのただのり)と右腕(その1 全3回)

行き暮れて 木の下陰を 宿とせば 
花やこよひの 主ならまし  忠度

今日はね、この歌を詠んだ平忠度のお話だよ。忠度は戦いなんかしたくはなかたっんだ。お花や雪を見てロマンチックに歌を詠んでいたかったんだよ。
ポンと昔。源氏に追われた平家たちは京都から兵庫へと逃げて行ったんだ。平家たちはもう一度都の京都を奪い返してやるぞと兵庫の福原に集って東の生田の森と、西の一之谷に砦を築いていたんだよ。そうし

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■【より道‐77】戦乱の世に至るまでの日本史_「佐々木一門」の整理①

■【より道‐77】戦乱の世に至るまでの日本史_「佐々木一門」の整理①

山陰地方で中世の時代を駆け抜けたご先祖様を想像するために、1333年(元弘三年)の「元弘の乱」から1352年(観応三年)の「観応の擾乱」まで、学びを深めていますが、目的は、我が家に伝わる「尼子の落人」という言い伝えの謎を解明するためです。

どうも、先人の武士たちは、氏が変化したり、似たような名前、諱が継がれたりしていて、名前を覚えるのにとても苦労します。しかし、一族を辿ることで多くの気づきを得る

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源氏の身内争いが戦国時代を招いた?

源氏の身内争いが戦国時代を招いた?

ご先祖を辿られるなかで、どうしても史実と重なる部分もあり、その時に触れられる歴史が、簡潔で秀逸な筆致でまとめられています。

ご自分のご先祖が岡山県の八幡神社の氏子である事から、
源氏の血筋が後に「室町幕府」を創建した足利氏に繋がるという事を、わかりやすく知る事ができます。

私もずっと以前に、何かの本で知った時、「へぇ~!」と感心した記憶はあり、その時はあまりのややこしさにまとめられず、その系図

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■【より道‐76】戦乱の世に至るまでの日本史_それがしは佐々木道誉なり

■【より道‐76】戦乱の世に至るまでの日本史_それがしは佐々木道誉なり

我が家には「尼子の落人」という言い伝えがありまして、ご隠居である父が半生かけて、ご先祖さまのファミリーヒストリーを研究してきました。

父がまとめた随筆『尼子の落人』や『新見太平記』には、我が家が守ってきた土地や氏は、平安末期に以仁王の挙兵で、武勇を轟かせた、長谷部信連からつながるものであるのにもかかわらず、血筋は尼子氏という言い伝えがあるというものでした。

尼子氏のご先祖さまを辿ってみると、源

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駒姫と畜生塚(その3 全3回)

駒姫と畜生塚(その3 全3回)

それから、みなで大石をどかしてね、大きな穴に投げ込まれた女の人たちを、ひとりひとり丁寧にお寺の脇のお墓に移してあげていったんだって。きれいなお着物は泥まみれになっていたけれど、大切にきれいにしてとっておいたんだ。

「お、これは袖の中から手紙ではないか」

朱色の着物の袖の中から錦の布に包まれた手紙のような物が出てきたんだ。

「罪なき身も世のくもりにさえられて
ともにめいどにおもむくは 

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