ノンデュアリティ⇨アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(シャンカラとラマナ・マハルシ)?岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」ラマナ・マハルシ「真我」
ノンデュアリティ⇨アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(シャンカラとラマナ・マハルシ)?岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」ラマナ・マハルシ「真我」
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(ノンデュアリティ(非二元)のウパニシャッド思想=不二一元論(ふにいちげんろん))。
その最も有名な提唱者が、シャンカラ(8世紀)だ。
シャンカラさんねー。ラマナ・マハルシさんは?
20世紀最大の覚者と呼ばれる人だよ。
なぜこの2冊を挙げたの?
この2冊は、今年に入ってから刊行されている(岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」(以下、岡本本)は1月、ラマナ・マハルシ「真我」(以下「真我本」)は7月)。アドヴァイタ・ヴェーダーンタ自体は、1000年以上も歴史があり、20世紀のニューエイジ運動にも影響を与えたらしいが、日本の精神世界では、あまり広まってなかったみたいだ。1月に刊行された岡本本は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタなどの教えを広めて、日本のノンデュアリティの世界に、大きな影響を与えたらしい。
真我本のほうは?
アドヴァイタ・ヴェーダーンタの思想を持つ、20世紀最大の覚者、ラマナ・マハルシの書だ。7月に出たということでもあり、割とホットな本と言える。「『ラマナ・マハルシとの対話』と『Day by Day with Bhagavan』から「真我」の教えの核心だけを厳選!」(帯より)した本だ。このタイミングでこういう本が出ていることを考えると、日本の精神世界のノンデュアリティの世界に、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えが、急速に広まっているんじゃないかなぁと思うくらいだ。これから、精神世界で流行るかもね?・・・っていうか、もう流行ってるのか?!
シャンカラさん。
シャンカラさんは、早熟の天才で、32歳で亡くなっているそうだ。
そんなに短い生涯で、後世に多大な影響をもたらす哲学・思想を完成させたんだね。
まあ、言ってしまえば、シャンカラさんの思想は、「見るもの」=ブラフマンだけが実在で、現象世界だけでなく、五感や、心・身体に至るまで、すべて幻影に過ぎないと説く。そして、ブラフマン=アートマン(真我)と捉える。
昔、ポリドルフィンさんが書いてた、唯識の教えは、外の世界は無くて(唯識無境(ゆいしきむきょう))阿頼耶識(あらやしき)がすべて夢を見せている(唯識所変(ゆいしきしょへん))と考えるけれども、五感での認識までは否定しなかったよね。
シャンカラさんの教えは、もっと進んで、現象世界は幻影だ、というだけでなく、五感や、心・身体までも、現象世界は幻想で、要するに、二元論のサーンキヤ哲学でいうところのプラクリティ=見られるもの、に該当するものが、あるのかわからない夢みたいなもの、とする点で徹底している。
ほぼ全てが夢みたいなものになっちゃうね(笑)
岡本本によれば、シャンカラさんは、正しい知識を得るだけでよく、瞑想などの実践は必要ないというか、むしろ害があるという考え方らしいとボクは思ってる。(この点は、AIと意見が違っていたので、もしかしたら間違えてるかも?)
本当に知識だけでいいなら、なんかラクな感じがするけれど。
ちなみに、サーンキヤ哲学では、知識を重視する点は、同じだけど、ラージャ・ヨガのような実践を前提としていたみたいだとボクは思ってる。それに対して、シャンカラさんは、知識を得るだけでいいと言うのだとボクは思ってる。(AIは、シャンカラさんは、完全に実践などを否定していたわけではないという立場に立つので、ボクは間違えてるかもしれないけれど。)
ラマナ・マハルシさん。
真我本のほうは、つい最近、ゲットしたばかりだ。
なんと!まだ殆ど読んでないと(笑)
ラマナ・マハルシさんは、20世紀最大の覚者と言われる人で、16歳のときに思い立って、聖地と呼ばれる山に登って、瞑想生活に入る。発見されたときは、髪も爪も伸び放題で、足なんか虫にくわれてたらしい。
そこまで、深い瞑想状態だったんだね。
まあ、そんなエピソードのある人なんだけどさ、解脱について、以下のように答えているんだ。
うーん、深いけれども、具体的に見えて来ないね。ポリドルフィンさん、なんか解説してよ。
・・・とはいうものの、真我本は、まだ殆ど読んでないからなぁ。解説しようにも、できないのだよ。(ボクも、解脱って、上の意味かなーとは、感じているものの・・・。)あと、ラマナ・マハルシさんは、言葉による伝達よりも、沈黙によって伝達することを重視する、言ってしまえば、日本の禅仏教みたいな教え方をした(たとえば、達磨大師は不立文字(ふりゅうもんじ)と言っていたらしいよね?)人らしく、言葉によって詳しく解脱を説いたかも、現段階のボクには不明なんだ。
それでも、なにかひとつ・・・!
じゃあ、玉ねぎの皮むきのたとえ話をしようか。
おっけー!!
真我を探すことは、玉ねぎの皮むきに似ている。「私は誰か?」という問いかけを通じて自己探求することで、皮をむいても、皮をむいても、真我は出てこない・・・。でも、むききって、「なにもなくなった」ときに真我が現れると!!
「なにもなくなった」ってことは、なにもないんだよね?(笑)。
そこにこのたとえの妙味があると思うんだけどさ(笑)。
本当に面白いたとえ話だったよ。
玉ねぎの皮むきのたとえ話について詳しく書いてあるWebページがあるから引用しとくね。
なるほどね。
アドヴァイタの話は、次回も続くよ。
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