P34. 無欲と智慧の関係は?無欲と智慧それは同じもの。無欲とは真我のみを求めること、智慧とは真我を決して離れないこと…とマハリシは言う。ただ在りてある一者、その分光たる心、彷徨う心は対象物(影)を創る。そして一者を光源と見做すのは心。だが哀しいかな光源と影に直接の繋がりは無い…
P35. 解脱とは何でしょうか?束縛されている自我の本性に尋ね入り、その真実の本性を悟ることが解脱である…とマハリシ。光源とフィルムとスクリーン。自我はスクリーンに映る流浪の映像。映像を離れ、フィルムを捨て去り、光源とひとつに還る。一者の智慧で自我を手放す恐怖が至福となるように…
P32. 解脱を願う者にとって本を読むことは・・・本を読むあいだ解脱は成されない。何故「私は誰か」と問うか。想いと対象がある限り一者は隠され続ける。想いの源流を辿るとき、為すべきは心を静寂に保つこと。手放す恐怖が智慧で癒され、輪廻に縛られた心もろとも「沈黙」に溶け込み滅するまで…
P31. 解脱(真我)を願う者にとって、現象世界の構成要素や性質の探求は全く不要であり、すべきことは真我を覆い隠すもの総ての拭い去りである…とマハリシ。そして、現象世界は夢のようなものと見做されるべき…と加える。そろそろ真我を(観る働き以前の)根源的一者に置き換えたくなってきた…
P34. 洞察力とは何でしょうか?静寂にあることが洞察力である。静寂とは心が真我に溶けていること。過去や現在、未来を知るテレパシーのようなものは洞察力ではない…とマハリシ。物理現象おろか、直感や共時性、辿られる過去世も粗大な対象物…と観る働きに還る。非ず非ずの洞察、消え逝く主客…
P33. 幸福とは真我の本性そのもの。私たちは無知のゆえに対象物から幸福を得るものと錯覚する。心が外に向かえば悲惨を味わう。世界と想いが消え去れば、心は幸福を経験する…とマハリシ。想いとその対象物(二元)を滅し、清浄なる沈黙(一元)にあり続ける智慧、心と一者の邂逅、如実知自心…
P29. どのような帰依者が最上か?― 総てを真我に委ねきった者、真我の他に想いが起こらず無心に真我に留まる者が最勝の帰依者とマハリシは言う。これは現実逃避なる想いではなく、一者としての智慧の顕現その自覚があって…と思うのだが。何もかも真我に明け渡せば幸福に仕舞うと言うのだろう…
P27. マハリシは「想いを完全に捨て去り真我に集中すべき」と言ながらも、心の制御にも言及する。即ち、欲望と憎しみ、善い悪いから離れよと。心が静まれば総ては静まる。心底、印象世界は心の投影と観じる時、他者は私。他者への想いはそのまま私に還る。我儘を去った静寂が心を濯ぎ終えるまで。
P28. 真我の本性とは何か?存在するのは真我のみ。真我は「私」という想いが絶対にないところのもの、それは沈黙と呼ばれる…とラマナ・マハリシ。喩えれば、対象物たる心のざわつきを滅し、あたかも水面の月光が静寂しきった月とただ一つに還るように。釈尊の拈華微笑は沈黙の響きなのだろうか…
P30. 神および師(グル)は解脱への道を示すのみ。弟子は示された道を自らの努力で追求し解脱を得なければならない…とマハリシ。言わば禅語の冷暖自知だがこれは自明。論点は冷暖自知をも囚われと峻別する道程(ディヤーナ)、並びに明け渡し(サマーディ)にあるかどうか。観る働きも露と消え…
P28. 探求はどのくらい続けるのか?ラマナ・マハリシは、心に対象物とその印象が残る限り「私は誰か」と尋ねなければならない…と言う。結局、心は自らの想いに縛られる。心と想いの主客に気づいたら、想いのみならず主(あるじ)たる心の消滅が叶うまで探求は続く。私の心を存在させた私は誰か。
P29. №17 少し読み辛い。意志を持たず、ただ存在するという美徳の「太陽・神・エーテル」は真我の比喩だろう。自然現象や個我のカルマが、真我とは全くの別物という影であり、如何に無力であるかを ラマナ・マハリシは説いているように思う。自意識過剰が招く観自在の欠如と誤った寄る辺と…
P23. 心にある想いの最初は「私」という想い、他の想いはその後にしか現れない。そして、真我の実現には「私は誰か」という想い自体をも滅ぼすことと、ラマナ・マハリシは言う。燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒が、最後はその炎に焼べられるように。二元を破壊する問い「私は誰か」も対象物…
P25. ラマナ・マハリシは、心に静かさを取り戻す方法と心の消滅の違いを説く。そして、心を消滅する問い「私は誰か」は、よく整えられ静まり一点に強く集中された心にとって容易であると。呼吸を整える、神の姿を瞑想する、真言を唱え続ける、断食など…は集中の術。心身の清浄は最大の支えとも…
P20. これら(五蘊など)が私でないなら、私は誰なのか?マハリシは「今述べたことのすべてを これではない、これではない と否定し去ったあとに、ただひとつ残る自覚、それが私である」と。思うに、私の身体、私の心、私の命…と私の○○がある限り、その対象物を観る私が別に居ることになる。
P24. 私は誰か…という想いを保つには、他の想いが差し挿んだ時に「その想いは誰に起こってきたのか」と尋ねるべき…とマハリシ。他の想いの源泉は個我の垢たる付着物。穢れ無き真我に個我を入滅せしめるに「ただ真我の如く…」と、個我は無心な問い「私は誰か」を頼る。無垢な個我をも滅さんと…
P22. マハリシは、真我に内在する心の驚くべき力、つまり世界の生滅は想いが担うと語る。ただ、自ら作り出す粗大な生滅に心が依拠するあいだ真我は隠される。この世界と真我の相容れなさは問題だがヒントだろう。相容れないのは別物ゆえに是非もなし、心は私ではないとマハリシも言うではないか。
P22. 総ての認識作用と、総ての行動の源である心が静かになったときに、世界は消えてゆくだろう。―とマハリシ。しかし世界を消したい衝動はトラップだ。これは認識と動機の起源たる心を深める道標。その心も私ではないと言う。ただ「私は誰か」と問い質し、一旦、認識と動機の沼を這い出たい…