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観照について and 心と意識の区別

早いものでもう9月です。まだまだ暑いですが、朝のうちの気温はやや下がってきていて、ゆっくりとですが確実に秋の訪れを感じさせてくれます。それにしても、わたしは夏には強いほうだったんですが、今年はちょっと調子が低迷していましたね。ただ、Uber Eats が24時間サービスとなったため早朝からの稼働が可能になって、その分暑さのピークとなるお昼すぎまでには業務を終えられるようになったので仕事そのものはだいぶ楽にはなりました。

さて、今回はまたまたラマナ・マハルシの対話集から引用したいと思います。テーマは "観照" です。観照という言葉はそもそも日常的な語彙ではありませんので、聞いたことがない人も少なくないかもしれません。霊的な探求をされている人であれば様々な本で見かけたことがあるかと思いますが、わたしが見る限り、観照について正しく説明できている例は非常に少ないです。

なぜそうなるのかというと観照は、ここではラマナ・マハルシの言葉を借りますが "真我実現" した人、つまり真我を見出した人でなければ説明できない概念であるからです。にもかかわらず、あまりにも多くの自称マスターやティーチャーと言った人たちが "わたしが考える観照" について方方ほうぼうで語っているため、それを聞いたり読んだりした探求者を混乱させている状況があるとわたしは感じています。

実をいえば、これまでにも note や in SPIRE の記事において観照については念入りに言及してきています。たとえば in SPIRE における観照への言及は下記のリンクから見つけることができます。どれも同じことを話していますが、いずれもその時その時の文脈でお伝えしているため説明の仕方や言葉の使い方は異なっています。

それもあって、今回はラマナ・マハルシによる対話を引合いに出しつつ、観照についての独立した解説記事としてお届けしたいと思います。ちょっと長くなるかもしれませんが、観照について誤った理解を持ったままでは探求は行き詰まってしまいますので、がんばって読んでくださいね。

それでは早速はじめていきますが、マハルシの問答の前に、まず観照とはなにかについてを先に解説します。それを読まれてからマハルシの対話をみたほうが理解がより深まってよいはずです。

あ、ちなみに今回の記事は以前書いた

において説明した話の補足というか続きという内容にもなりますので、あわせてお読みくださるとより理解が深まるものと思います。


観照とはなにか?

さて、観照とはなにかをシンプルに述べるなら、それは『唯一の主観意識である神が、神自身であり神の被造物でもあるこの世界のすべてを観ている』というものになります。

ポイントは2つあり、1つは『この世界における主観意識(物事を観たり感じたりしている主体としての意識)は神だけである』ということです。わたしたち人間は自分がものを観てなにかを感じ、考え、そして行為していると思っているわけですが、そうではないのです。本当は、神だけが観て感じ考え、行為しているのです。ですから人間はというと、神によって神の代わりとして観て感じ考え行為させられているわけです。とはいえ、人間も神の被造物であり、神の一部ですから、結局のところ、やはり神だけが主観意識を持った観察者であり、感じる者であり、考える者であり、行為者なのです。

自由意志はありません、と覚者や賢者がいうのは彼らにとっては上記のことが知覚されているからです。水が水であることが当たり前であるように、覚者や賢者にとって行為者としての "わたし" や "あなた" が存在しないことは当たり前のことなのです。

2つめのポイントは『観る者と観られる者が同じである』ということです。神が神自身である世界を観ているわけですから、確かにそれはそうです。ではなにがポイントなのかというと、それは観察者と観察対象がイコールであるとき、そこには観察者と対象という分離がないということです。当たり前のようでもありますが、同じであることを分離がないと言い換えることには理解を深める作用があるでしょう。

すべては一つである、とわたしはよく言っていますが、探求のある段階からは「すべては一つである」と考えるよりも「分離は一切ない」と考えるほうがうまくいくでしょう。いずれにしても、分離がないということの根源はこういうことなのです。

このポイントでもう一つ重要なのは、観察という行為とその対象に分離がないということは、観照とは実は行為ではないということです。わたしたちには独立した行為者としての人間の視点で物事を考える習慣があるため、多くの探求者はついつい神もまた人間のような姿形を持った存在であると仮定した観点で観照を理解しようとしてしまうわけなのですが、神とは意識そのものであり、また同時にすべてであるものです。ですから本当は神が神自らを観るという表現も正確ではないのですが、順を追って理解を導いていくためには、いったんこのような表現を用いざるを得ません。

ともあれ、観照が行為ではないということをなんとか言葉で理解できるような表現でさらに実相に近づけるのであれば、『観る/観られるということが重なり合ってただ起きている』とでも言えましょうか。もちろんこれでも正確ではありません。それでもこの表現で明らかになるのは、そこには観照する者、すなわち "観照者" はいないということです。

観照を知っている人、つまり観照を直截経験している人が "観照者" という言葉を用いるのは、観照者などいないことを説明するときだけです。今回の記事の核心はこれです。このことをよく覚えておいてくださいね。

追記:そもそもなぜ観照というものが説明されるのか? ということをうっかり言い忘れていましたが、要するにある肉体精神機構に覚醒(もちろん悟りも)が起こると、その肉体精神機構は観照を直接経験するわけです。『観ると観られるが重なりあっている』というのは存在の本質がそのようなものであるということで、覚者はこれを五感や思考を経由せずに知覚します。覚者はラマナ・マハルシが言うところの真我実現した人と同じです。つまり、観照というのは覚者や真我実現した人はなにを経験しているのか? その境地を一言でいうと、それが観照だというわけです。ちなみに、量子力学では観察者が量子状態にある電子を観察すると、電子は物質的な粒子(つまり存在するもの)として現れると言いますね。ここで、すべてが一つで分離はないという観点を加えると、観察者と電子の間に分離はない=観察者と観察対象がおなじ、となります。つまり、このときに起きているのは観ると観られるの重ね合わせであり、本当は観察者も観察対象もありません。つまり、物質を物質として存在させているのが観照なのです。このように観照とは存在の本質であり、それは量子力学が明らかにした知見からも示唆されているのです。


観照者の正体

ではなぜ、この "観照者" という誤った概念が広まってしまっているのでしょうか? それをこれから明らかにしていきます。まずはこちらの表をご覧ください。

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この表は意識の個別性を神である全体性と高次の自己であるハイヤーセルフ領域、および肉体精神機構を宿している意識の3つに区分し、それぞれがどのような視点を持っているかを表したものです。

コンテクストとは背景や文脈といった意味ですが、意識をどの次元の文脈で捉えるかということだとご理解ください。コンテントとは内容物です。映画に例えていうなら、コンテクストをスクリーンだとすれば、そこに映っているものがコンテントです。ここでのポイントは、心とは肉体精神機構レベルの意識にとってのコンテントであるということです。

心として現れている一切は、この表でいうところのハイヤーセルフの次元に存在するコーザル体(魂)から肉体精神機構の意識次元にあるメンタル体とアストラル体を通して肉体の脳に表現されます。この部分だけを見れば、肉体精神機構には自由意志がないが、魂には自由意志はあるとみなすことができますが、魂に自由意志を与えているのは根源である神なので、実相においては魂にさえ自由意志はありません。肉体精神機構にせよ魂にせよ、与えられているのは "見かけ上の自由意志" です。

意識がコンテクストであり、心がコンテントであるということは、わたしたちが自分だと思っているその心(自我)は意識のスクリーンに浮かんだただの映像でしかないということを意味しています。これがエゴ(自我)は幻想であるということなんですね。いやいや、自我が幻想だなんてそんなわけあるかい! と思う人も(この期に及んでまだ)いるかもしれません。

では、考えてみてください。熟睡していたとき、あなたはどこへ行っていましたか? どこにも行っていないはずです。どんなときであれ、あなたはあなたで在り続けています。熟睡時のあなたがあなたでなかったはずはありませんね。しかしながら、熟睡時にはあなたの心(自我)はそこにありませんでした。そのとき心は休止状態にありました。同様に肉体も休止状態でした。つまり、あなたは自我でも肉体でもなく、意識なのです。あなたとは意識というコンテクストであり、そのコンテクストの中に自我や肉体があらわれているのです。

熟睡時の意識にはどんなコンテントもありません。ですから目覚めたとき、あなたはなにも覚えていません。ただ、熟睡していたという感覚だけがあるわけですね。この熟睡していた感覚とはつまり、その間も存在していた感覚のことです。この感覚がもし途絶えていたなら、熟睡していたという感覚も起こりません。すなわち、あなたは意識であり、意識とは存在の感覚のことです。熟睡時には存在の感覚だけが継続していて、ほかにどんなコンテントもないため、目覚めたときにはなにも覚えていないのです。

さて、よろしいですか? それでは表の中身について個別に見ていきましょう。


全体性、あるいは神としての意識(唯一の主観意識)

全体性あるいは神としての意識については先ほどから説明してきたとおりです。神にとってのコンテクストは全体性、すなわちすべてであるところのすべてです。無限といっても構いません。そして、神にとってのコンテントは神自身ですから、これもまたすべてのすべて、無限です。

先ほどの説明では神について「観るものと観られるものが同じ」であるとお伝えしましたが、これを別の観点でいうと神においては「コンテクストとコンテントが同じ」であるということができます。

神の視点においては、すべては観られるものですが、先に述べたように、神は観る者ですらありません。この表における神の視点こそが観照であり、それ以外のものはいずれも観照ではありません。ですからここが重要なのですが、観照についての誤った説明や、観照者なる誤った概念の出どころは例外なくそれ以外の視点、つまりハイヤーセルフの視点か高次の自我の視点か、低次の自我の視点のいずれかになります。

この表を頭に入れていただければ、今後はどこかしこで観照について読んだり聞いたりしても、その真偽を識別することができるようになるでしょう。また、それによって、それを語る人物自身がどの次元でものを言っているかも判別できるはずです。


ハイヤーセルフ(高次の自己)としての意識領域

ハイヤーセルフはわたしたち人間が魂と呼んでいるものに相当し、それはコーザル体と呼ばれる形でこの物質次元とは異なる次元に存在しています。コーザル体にはわたしたちのすべての転生の記憶があるとされていますが、この次元は時間を超越しているため、わたしたちから見ると未来にあたる人生の記憶も含まれます。

魂としてのわたしたちは人間存在としてのわたしたちと同じようにモノを考えたり感じたりしているわけではなく、人間次元のすべての存在の思考や感情や行為をモニターしコントロールしている、いわばホストコンピュータのようなものと考えればよいかもしれません。

いずれにしても、ハイヤーセルフの意識をわたしたち人間が知ることはできません。しかし、霊感インスピレーションや啓示といったかたちで、まれにハイヤーセルフからのメッセージを受け取ることはあります。

ハイヤーセルフの視点では、自らは観る者でもあり、同時に観られる者でもあります。ハイヤーセルフは人間であるわたしたちの意識を観ていますが、同時にハイヤーセルフは自らが神によって観られていることを知っています。しかしながら、ハイヤーセルフには自我のようなものはなく、したがって自らを行為者であると錯覚しているというようなことはありません。そのような観点は人間の心の投影でしかありません。

ところで、わたしたちの次元からすれば神もハイヤーセルフも「高次のもの」として一括りにすることが可能といえば可能です。しかし、ハイヤーセルフには個別性、個人性がありますから、そのような捉え方をすると観照は行為となり、そこに観照者としてのハイヤーセルフが生じてしまいます。ですから、この視点は観照ではありません。そして、この観点も心の投影です。

実際のところ、このような観点で観照を語っている人もいます。しかしながら、観照とはなにかを理解するうえではこのような捉え方は理解の妨げになるばかりか、なにか普通の人間を超越した存在としての観照者というものがあり、それに成ることができるかのような誤解を招きかねません。


肉体精神機構の意識

肉体精神機構の意識のコンテントが心です。普通は心というとそれは自我と呼ばれているものとイコールです。しかしながら、意識レベルが高まっていくにつれ、心にはより高次の機能が現れてきます。この心の機能は心そのものをモニタリングし、自我がさまざまなものと一体化していると、これに気づいて一体化を解除するように働きます。

高次の心(ハイアーマインド)

これを高次の心(ハイアーマインド)とわたしは呼んでいます。グルジエフによれば人間には本能・思考・感情の3つの基本的なセンター(中枢)に加えて、高次の思考センターと高次の感情センターがあるそうです。思考はメンタル体、感情はアストラル体が司っていますから、高次の思考センターと高次の感情センターが活性化するとは、それぞれメンタル体とアストラル体がより高次の状態に進化することと同義だと思われます。

また、ラメッシ・バルセカールは心について「考える心」「機能する心」があると言っていますが、わたしが言うハイアーマインドは「考える心」が縮退し、「機能する心」と「機能するために考える心」に変わった状態とも言えます。ラメッシのこの話については下記の記事で詳しく書いています。

ハイヤーマインドがはっきりと顕れてくるのは意識レベル500 からです。540 では低次の心であるロウワーマインドに変わってハイアーマインドがその人の自我を支配します。この段階でハイアーマインドは実現、もしくは完成されたといってもよいでしょう。

ハイアーマインドは心の一体化に気づき解除するという性質によって分離という幻想を少しずつ見抜いていく力を持っています。

ハイアーマインドの視点では低次の心であるロウワーマインドは観察の対象ですから、その意味でハイアーマインドは観る者です。その点で、ハイヤーマインドは依然として自らを行為者だとみなしています。しかしながら、ハイアーマインドは分離が幻想であることをいずれ知りますから、そのときには自らが観られるものでもあることを理解します。この理解に到達したときに、心を超越できるかどうかが真我を見出せるかどうかのポイントとなります。それがまさに行為者の消滅の瞬間です。

しかしながら、残念なことに観照に関する誤った情報の大部分がこの「観る者としてのハイヤーマインド」の視点から語られています。しかしこの観点は単に心が心自体を観ているに過ぎません。心を「観ている」心は幻想の行為者です。すなわち、多くの自称マスターたちがハイアーマインドを超越できずにいるわけです。

瞑想やヨーガに専心することによって誰でもが実現できるのはハイヤーマインドまでです。ヨーガ・スートラがヨーガの目的として掲げる "心の統御あるいは心の止滅" とはハイアーマインドを実現することと言ってよいでしょう。心の止滅というとき、そこで「心が止まった」と言っているのは誰でしょうか? それは心そのものに他なりませんね。もちろん、瞑想やヨーガによってハイアーマインドを実現できた人が適切な師の導きや偶然的な神の恩寵によって真我実現に至ることはあります。でも、ハイアーマインド実現がゴールであると誤って教えられていたならば、真我を見つけることはむしろ非常に難しくなるでしょう。

……とはいったものの、ハイアーマインドが実現されるだけでもそれは素晴らしいことです。意識レベル540 は本当の幸せを経験できる領域ですから、それでゴールだと考えても全然いいわけです。ただ、それは真我実現、あるいは覚醒や悟りといったものではないということをここでは説明しています。ちなみにですが、前回の記事でパラマハンサ・ヨガナンダについて、彼の意識レベルは540 と測定されたことについて触れましたが、そこから考えても、真我実現=覚醒、悟りへの補助輪としてのヨーガで到達できる上限はやはり540 であると言えるかもしれません。ヨガナンダほどヨーガを極めた人物もそうは居ないでしょうから。


低次の心(ロウワーマインド)

低次の心はほとんどの人にとっては自我と同じとみなしてよいものです。低次の心には気づきがなく、この心に支配されている人は "自分がなにをやっているか自分で分からない" 状態にいることがほとんどです。別の言い方をするなら、この人は思考や感情と常に完全に一体化していて、たとえば怒っているときに自分が怒っているという自覚がありません。

この人にとっては世界のすべては自分が観る対象であり、自分は観る者であり、行為するものです。


 ラマナ・マハルシ、観照について語る

さて、ここまで観照について述べてきましたが、観照と観照ではないものとの識別について、理解は得られたでしょうか? 今回は観照という言葉にスポットを当てて語っていますが、この記事に書かれていることを正確に理解できれば、ラマナ・マハルシやマハラジやラメッシ・バルセカールといった賢者たちの対話集を読むことがずっと容易になるはずです。

それではいよいよですが、ラマナ・マハルシの対話を引用します。ちょっと長いですが、ここまでの説明を十分にご理解されていたなら、案外すんなりと読めてしまうかもしれません。引用元の書籍はこちらになります。

対話 180
再びフリードマン氏が語った。
「眠りは無意識の状態ですが、目覚めの状態には心の活動があります。心は眠りの中で潜在的な状態として存在していたのです」

マハルシ:あなたは眠りの中にいなかったのですか?

質問者:いいえ、私はそこにいました。しかし無意識の状態だったのです。そこには「私は眠りと目覚めの両方の状態に存在している」と言う心と無意識の状態の両方を観照している人がいるはずです。

マハルシ:誰がその観照者なのでしょうか? あなたは「観照者」について語ります。そこには観照する主体と観照される対象があるはずです。これらは心の創造物です。観照者という観念は、心の中にあるのです。もしそこに無意識状態を観照する人がいたなら、彼は「私は無意識を観照した」と言ったでしょうか? あなたは今、心を用いて、「そこには観照者がいるはずだ」と言いました。誰がその観照者だったのでしょうか? あなたは「私」と答えるはずです。その「私」とはいったい誰でしょうか? あなたは自分自身を自我と同一視して「私」と言います。この「私」という自我が観照者なのでしょうか? そう語るのは心なのです心がそれ自身の観照者になることはできません。自らに限定を押し付けておいてから、あなたはそこに心や無意識を観照する人がいると考えるのです。あなたは「私は観照者だ」とも言います。無意識を観照する人が「私は無意識を観照する」と言うべきであって、現在の心が不当にそう主張することはできないはずです。

こうしてみると、その説全体が支持できないものとなります。意識は無限です。限定された存在となったうえで、心は我がもの顔で自分自身が観照者の地位にあると不当に主張するのです。本当はそこに観照すべきものなど何もありません。「それ」は在るのです。シンプルな「存在」として。

フリードマンという人はこの対話集のほかのところでもよく出てくるエンジニアの方です。よく出てくるということはそれだけ熱心にラマナ・マハルシを訪れていたのでしょう。

この対話のポイントは、質問者であるフリードマンは、心の視点から観照について語っているということです。非常に熱心な探求者ですし、曲がりなりにも観照ということについて考えてもいることから、少なくとも彼の意識にはハイアーマインドが顕れていると思われますが、一方で観照者("観照している人")という言葉を用いているところから、自我の幻想性、行為者の不在性については知覚できていないことが伺われます。先のところでハイアーマインドは意識レベル500 からはっきりと現れてくると書きましたが、それ以下の領域でも徐々にですが成長していくものです。わたしは、フリードマンの意識レベルは400台だったのではないかと思いますが断定はできません。


あなたは「観照者」について語ります。そこには観照する主体と観照される対象があるはずです。これらは心の創造物です。観照者という観念は、心の中にあるのです。

観照者という観念は心の中にある、とラナ・マハルシは言っています。先ほどの表をもとにして言えば、観照者という観念は(高次および低次の)心の視点からのものである、となります。そしてそもそも、どんな観念であれ、それはすべて心の産物であることも覚えておいてください。


心がそれ自身の観照者になることはできません

ここではハイアーマインドがロウワーマインドを観察(観照ではないことに注意)していることについて、ハイアーマインドであるその心が「我は観照者なり……」と言っていることのおかしさを指摘しています。

あえて重ねて書きますが、心を観察することは観照ではありません


こうしてみると、その説全体が支持できないものとなります。

つまり、フリードマンの話は全部ナンセンスであるということです。マハルシはフリードマンの言ったことの一部さえも肯定していません。観照者というのは誤った観念であるということです。ですから、もしもあなたがこの人は "本物だ" と思うマスターやティーチャーが「観照しなさい」とか「観照者でいなさい」などと言い出したら一目散に逃げ出してくださいね。


本当はそこに観照すべきものなど何もありません。「それ」は在るのです。シンプルな「存在」として。

観照すべきものなどない、という言葉の真意は「だって観照 "する" ことなどできないからね」というものです。観照は行為ではなく、現象でさえありません。世界が世界として在ること、それが観照なのです。したがって、観照とは存在のことです。存在するとは、「観る」と「観られる」が重なり合って、そのどちらをも超越した状態のことです。


いかがでしたでしょうか? ラマナ・マハルシの言っていることが腑に落ちたようでしたら、それは探求という道において大きな進展です。今回のようなテーマを理解していくことで目指されるのは「行為者の感覚を捨てる」ことです。最初から行為者であることを放棄するのがバクティというやり方で、なぜ行為者が幻想なのかを色々な角度から教えられ学んでいくことで「あっ、行為者おらんかったわ」という理解とともに知覚を書き換えていくのがジュニャーナです。なので、どちらも同じですよ。

さて、今回の記事はこれでおしまいです。お読みくださってありがとうございました。また次回の記事でお会いしましょう。


おまけ

こういうものを買いました。あ、わたしはアフィリエイトなどは一切やっていませんよ。ただの見せびらかしです。

昨年末におなじアンカーのカナル型のワイヤレスイヤホンを買って愛用しているんですが、カナル型は完全に耳を塞ぐため、自転車に乗りながら使用するのは道交法的にNGです。一応、外音取り込みモードというのがあってそれをONにすると周囲の環境音も聞こえるのですが、やや不自然な聞こえ方をするし、仮に外音がちゃんと聞こえていたとしても、そもそも耳を塞いでいるのはやはり道交法的にはグレーだと思います。ただ、聞いた話では、警察官から声を掛けられて気づかなかったらアウトらしいので、もしかすると耳が塞がっているかどうかは要件ではないかもです。適当な話でごめんなさい。

とはいえ、わたしはたとえ周囲の音が聞こえていたとしても、耳を塞ぐカナル型イヤホンをして自転車に乗る気はありませんけどね。

まあそんなこんなで、Uber Eats の仕事でそのイヤホンを使うことはありませんでした。ちなみにそうすると、仕事以外でわたしが一人で外出することはあまりなく、近所のお風呂屋さんに行くときや病院に行くときくらいしかこのイヤホンの活躍の場がない現状です。ただ音質もいいし使いやすいのでめっちゃ気に入ってはいます。Soundcore Liberty 4 というモデルです。

ひるがえって、この仕事は結構長い時間を外で過ごすんですが、お店での受け取りとお客さんへの受け渡しのとき以外は自転車を漕いでいるか、立ち止まって待機しているかのいずれかです。なので、その時間に音楽を聴いたり、AmazonのAudibleで本の朗読を聴けたりしたら、QOL爆上がりなんだよなあ、とずっと思っていたんです。

そこで、というわけでとりあえず他の配達員の人たちを観察してみると、約半数くらいの人がなにがしかイヤホンをつけて仕事しているようです。しかし見た感じ、そのほとんどはカナル型のイヤホンです。しかも外音取り込みモードがついてない機種なのかただ使ってないだけなのか、お店の中でつけっぱにしていてお店の人の声が聞こえてない人まで見たことあります。よくないですねえ。というか、ようやるわ。まあ、わたしは他人のことに干渉する趣味はありませんので注意したりはしません。

ともあれ、中にはちょっと違ったイヤホンをつけている人がいることに気づいたんですね。結論からいうと、それは骨伝導タイプと、オープンイヤータイプのイヤホンです。これらはいずれも耳を塞がないため周囲の音を自然に聞きながら、同時に音楽や音声コンテンツを安全に聴くことができるという触れ込みの代物です。

わたしが買ったのはオープンイヤータイプと呼ばれるものになります。勢いで買ったものの、実際に届いて使ってみるまでは仕事で問題なく使えるのかどうかは半信半疑だったんですが、まったく問題ありませんでした。いやーこれカナル型の外音取り込みモードとは比べ物にならないほど素晴らしいです。まず当たり前ですが、耳を塞いでないのですから、外の音は普通に聞こえています。そのうえで音楽なり音声なりがスピーカーから聞こえてくるわけですが、これがなんというかうまい具合に環境音と混ざらずクリアに聞こえてきます。

もちろん、音量次第では周囲の音が相対的に小さくなりますが、試した感じでは屋外の環境音ってかなりうるさくて、そこそこのボリュームにしてもまったく問題ないです。処方箋薬局の待合のようなスペースで呼び出されるのを待っているようなシチュエーションだとすこしボリュームを下げておく必要がありますが、ショッピングモールの中を歩くようなときは屋外とおなじ音量でよさそうです。

これなら仕事で使えそうです。もちろん、受け取りや受け渡しの際はオフにするつもりです。あと、Audible も今回はじめて試しましたが、文章の硬いSF小説などは聞き取るのに集中力がいるため、自転車に乗る際に聴くにはやや不向きだなと思いました。まあ慣れもあるのでしょうし、当面はストーリーを追わなくてもよいノンフィクションの軽めのものか、音楽を聴くところからはじめていこうと思います。

ちなみにこの機種は Soundcore AeroFit Pro というものですが、Soundcore AeroFit というもう少し安価なモデルもありました。違うのはドライバー(音を出す装置)の大きさが Pro のほうが大きくて音質がちょっとよいことと、電池の持ちが Pro のほうが長いです。ただ、音質も電池の持ちも、無印 AeroFit でもこういう用途なら十分なはずです。わたしが Pro を選んだのは、本体での一時停止/再生や音量の上げ下げといった操作が Pro はボタン式、無印はタッチ操作だったからです。いま使っているカナル型の Liberty 4もタッチ操作なのですが、これちょっと苦手なんですよね。ボタンのほうがわかりやすいし確実です。

というわけで、おすすめです。本来がスポーツ用途向けなので、ジョギングやウォーキングをする人やジムでエクササイズする人などにはカナル型よりもこちらのほうがいいと思いますね。みんなで買いましょう。


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