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夢とアストラル界 について

いま Kindle Unlimited で『ラマナ・マハルシとの対話 全3巻』という本が無料で読めるようになっています。実は、わたしはラメッシ・バルセカールの本の中で彼がラマナ・マハルシについて言及していたこと以外はあちらこちらで断片的に見聞きしたことしか知らなかったので、いま少しずつですが読んでいます。

ラマナ・マハルシの教えの核心である真我探求(アートマヴィチャーラ)については『わたしは誰かと問いなさい』というものであると日本語で読める彼に関する本のほとんどすべてで書かれていると思います。しかし、マハラジに師事する以前にはラマナ・マハルシにも直接教わっていたラメッシ・バルセカールによれば、それはラマナ・マハルシの側にいた通訳が誤って英語で『わたしは誰か?』と伝えてしまったものを、それを聞いていた西洋人の探求者たちがそのまま持って帰って英語で出版したことによる誤りであり、正しくは『わたしとは "何か" を問いなさい』というものであったそうです。

このラメッシによって明かされた真相を知る以前より、わたしは真我探求については知っていたのですが、わたしはずっと違和感を持っていたんですよね。「わたしは誰か?」を問い続けると、その答えは必ず「誰か」という形のあるものになってしまうからです。

真我探求において探求すべき真我とは非個人的な主観意識のことであり、この真我を見出すことによって「自分」であったり「他の誰か」であったりする個我(個人的な主観意識=自我=エゴ)は幻想であることを直観するのです。そして、真我探求のやり方としては、真我ではないものを見つけて、それを消していって最後になにが残るか? ということを熟考するというシンプルなものになります。シンプルといっても、わたしがもう探求を終えているからそう言えるのであって、これが簡単なことだとは思いません。とはいえ、この熟考法において回り道や行き止まりのない正解ルートを示すと以下のようになります。

肉体はわたしだろうか? いや、肉体は「わたしの肉体」であって「わたし」ではない。ではわたしは心だろうか? いや、熟睡しているとき心はそこにないが、しかし「わたし」は消えたわけではない。つまり、心も「わたしの心」であってやはり「わたし」ではない……。肉体も心も「わたし」が観て感じている対象物である。そうすると「わたし」は純粋な観察者、観る者であるといえる。これが本当のわたしである。

このような答えにたどり着くことを前提にして改めて "わたしは誰か?" という問いについて考えてみてください。誰かという以上は必ずそれはなんらかの形のある存在のことですから、上のような「純粋な観察者」という答えを導くうえでこの問い自体が障害になることがお分かりでしょうか?

一方で "わたしとはなにか?" という問いは、この答えを導く推論の流れを阻んではいませんね。ですから、これが正しいアートマヴィチャーラです。しかしながら残念なことに、いま紹介したこの本の中でも「わたしは誰か」と訳されています。でも、ここまでの説明を読まれた上でこの本をじっくりと読んでいけば「わたしは誰か」では問答そのものが腑に落ちてこないことに気づかれるでしょう。

ちなみに、ホーキンズ博士とラメッシ・バルセカールは会ったことがあり、その際には数日間にわたって様々なことについて話し合ったそうです。ですから、博士もラメッシからこの「わたしは誰か?」の問題について聞き及んでいる可能性があるのですが、可能性だけで事実確認はできません。でも博士は本の中で「わたしは誰か?」を問うことも意識レベルを高める効果はあるが、それよりも「わたしとはなにか?」を問う方がもっとよいと書いています。

さて、今回のこの記事はそのホーキンズ博士の本の中からアストラル界について言及された文章を引用した先日の3つの記事のおまけとなります。というのは、この本の中でラマナ・マハルシがアストラル界について言及している箇所をさっき見つけたからです。ですのでこの記事にはホーキンズ博士の文章からの引用はありませんが、博士の著作からの引用をもとに書いた記事を収録しているマガジンに加えておくことにします。


さて、それではさっそく当該箇所を引用しましょう。

質問者:眠っている間の私たちの行為を想い出すことによって、自分自身を正す方法があれば教えていただけますか?

マハルシ:何の手段も必要ありません。誰もが幸福に眠り、その間何も覚えていないということを体験しています。それ以外には何も体験されていないのです。

質問者:その答えでは納得がいきかねます。私たちは眠っている間アストラル界をさ迷いますが、覚えてはいないのです。

マハルシ:アストラル界は夢と関係していますが、深い眠りとは関係していません。


質問者:世界の苦しみの原因についてどうお考えですか? 個人として、あるいは集団としてどうすればそれを変えることができるでしょうか?

マハルシ:真我を実現しなさい。それが必要なすべてです。

質問者:より偉大な奉仕のために、啓蒙を促進することができるでしょうか? それはどのように為されるのでしょうか?

マハルシ:自分自身を救えないからこそ、私たちは至高なるものに完全に自分を明け渡さなければならないのです。そうすれば神は世界も私たちのことも加護してくれるでしょう。

質問者:ゴールは何だとお考えですか?

マハルシ:真我実現です。

とてもよい質問と答えの流れなので、すこし後まで掲載しました。ちなみに、この質問をしたのは神智学者のグループの一人のようです。

さきほどアートマヴィチャーラにおける推論の流れのなかでもこっそり触れておいたのですが、ラマナ・マハルシは探求者への答えのなかで "起きているとき""夢をみているとき""熟睡しているとき" の3つの状態の違いについてよく話しています。今回はアストラル界についての話のおまけなので、この3つの状態については簡単に説明しておきます。

起きているとき自我(心)は肉体と一体化しています。そしてレム睡眠と呼ばれる浅い眠りのときに人は夢を見ているのですが、このときは肉体は休止していて、自我はアストラル体と一体化します。そして物質次元とは異なる現実のなかで色々な体験をするのですが、この夢の世界もまたアストラル界の一種です。アストラル界とは想念の世界ですが、個人の夢見における想念でさえ一個の世界を創造しているのです。その証拠に、夢のなかに出てくる他者はあなたにはコントロールできないはずです。その他者は夢の世界に実際に存在しているのです。

ところで、この問答では質問者が夢を覚えていないことと熟睡を混同しているため、話がちょっと噛み合っていませんね。また、この人は神智学の人なのですが、おそらくアストラル界のことをアストラル界というたった一つの世界があるというように誤解しているように思えます。また、自分たちは夢の中のアストラル界において、なにか重要なミッションでも行っているかのように夢想しているフシもあります。このように、神智学者といっても結局はよく分かってないのでラマナ・マハルシに聞きに行くような人たちだということが分かる、なかなか面白い一節でした。

そしてなによりも、ラマナ・マハルシのような賢者がアストラル界の存在を前提にして話をしているところが大切なポイントです。

さて、今回はこれでサクッと終わろうと思ったんですが、実はもう一つこの本のなかで面白いものを見つけたので、おまけのおまけでこちらも引用しましょう。


後にスワミ・ヨーガーナンダが尋ねた:「どうすれば人々の精神性を向上させられるでしょうか? どのような指導を与えるべきでしょうか?」

マハルシ:それらは個人の気質と彼らの心の霊的成熟度にしたがって異なります。全般的な教えというものはありえないのです。

質問者:なぜ神はこの世に苦しみをあらしめているのでしょうか? 神は全能の力でたちどころに苦しみを取り除き、宇宙全体に神の実現を命ずるべきではないでしょうか?

マハルシ:苦しみは神を実現するための手段なのです。

質問者:別の方法を定めるべきではありませんか?

マハルシ:それが神のやり方なのです。

質問者:ヨーガや宗教は苦しみに対する解毒剤なのでしょうか?

マハルシ:それらは苦しみを克服する助けとなります。

質問者:なぜ苦しみがあるのでしょう?

マハルシ:誰が苦しむのですか? 苦しみとは何でしょうか?

答えはなかった。ヨーギー(ヨガナンダ)はついに立ち上がると、「私の仕事のために祝福をお与えください」とシュリー・バガヴァーンに祈り、「性急に去ることを遺憾に思います」と告げた。彼はとても誠実で、献身的であり、感情に訴える人だった。

この質問者、スワミ・ヨーガーナンダとはあの有名なパラマハンサ・ヨガナンダのことです。ヨガナンダもラマナ・マハルシに教えを請いに行っていたようです。

いくつか質問がありますが、これらの質問からヨガナンダがまだ行為者であり、マハルシの言い方でいえば真我を実現していないことが分かるかと思います。

ホーキンズ博士の未邦訳の著作に「TRUTH vs FALSEHOOD」という本があるのですが、多数の被験者による二重盲検法を用いたキネシオロジーテストによって様々な人や事物の意識レベルを測定したり、真偽を判定した結果を掲載したものです。未邦訳なのがとても残念なのですが、以下のブログにて一部の内容を翻訳してくださっています。

このページの一番最初のところに歴史上の賢者、聖者、マスターとして知られている人物の意識レベルが一覧されているのですが、これをみるとラマナ・マハルシは 720(悟り)、パラマハンサ・ヨガナンダは 540(喜び、無条件の愛)となっています。このような意識レベルが博士によって測定された人物同士の対話というものはそう滅多と見られるものではないので、参考にしてみてください。

意識レベル 540 は無条件の愛のレベルであり、本物のヒーラーの領域です。その点でいえば、彼がヨーギーとしてヨーガを世界に広め、それによって人々を救いたいと考えたその動機は間違いなく本物であると言えますし、一般的な人々の目に彼は霊的なパワーをカリスマ的な魅力として放つ一種のスーパースターに見えたに違いありません。そして実際、彼の功績は大きかったと思います。

しかしながら、「どうすれば人々の精神性を向上させられるでしょうか? どのような指導を与えるべきでしょうか?」という最初の問いからして、彼は自らを行為者であると疑いなく信じていることが分かります。これに対するラマナ・マハルシの答えは、人々といってもその意識レベルは様々だから一概に言えるものではないですよ、というものなのですが、先程の神智学者との対話における

質問者:世界の苦しみの原因についてどうお考えですか? 個人として、あるいは集団としてどうすればそれを変えることができるでしょうか?

マハルシ:真我を実現しなさい。それが必要なすべてです。

質問者:より偉大な奉仕のために、啓蒙を促進することができるでしょうか? それはどのように為されるのでしょうか?

マハルシ:自分自身を救えないからこそ、私たちは至高なるものに完全に自分を明け渡さなければならないのです。そうすれば神は世界も私たちのことも加護してくれるでしょう。

質問者:ゴールは何だとお考えですか?

マハルシ:真我実現です。

の箇所では、彼は人々を苦しみから開放したり、人々を啓蒙するためにできることは「神に自分を明け渡すこと」つまり真我実現しかないと言い切っていますね。わたしも世界に貢献するためにできる唯一のことは自分の意識レベルを高めることだと書いていますが、同じことです。一方でヨガナンダや神智学者は「なにかを為さなくてはならない」と信じています。


質問者:ヨーガや宗教は苦しみに対する解毒剤なのでしょうか?

マハルシ:それらは苦しみを克服する助けとなります。

ここでマハルシが言っているのは、苦しみをなくすには真我実現しかないということです。ヨガや宗教といったものは真我実現のための補助としては役立つが、それ自体が苦しみをなくすものではありません。

宗教は置いておくとして、ヨーガ・スートラによるとヨガの目的は「チッタ ニローダ ブリッティ」すなわち「心の働きを止滅する」あるいは「心の働きを統御する」というものです。

このため、「心の働きを止めるないしはコントロールすること」ができるようになることが悟りや覚醒であると非常に多くの人が誤解しています。しかし、心の働きをコントロールすることは真我探求をしやすくするための補助的な意味しかないというのがここでのラマナ・マハルシの真意です。

瞑想についても同様で、ヨガも瞑想も、言わば自転車に乗る練習をするときに用いる補助輪のようなものです。補助輪ですから、それはいつか不要になるのですが、残念ながら補助輪をつけたまま自転車に乗り続けているのが瞑想家やヨガマスターといった人々です。わたしの見るところ、ヨガナンダもラマナ・マハルシの真意を理解できなかったようです。


マハルシ:誰が苦しむのですか? 苦しみとは何でしょうか?

答えはなかった。

誰が苦しむのですか? という問いは賢者や覚者が探求者によく投げかける問いです。というのも、この問いもアートマヴィチャーラだからです。あなたは苦しむと言うが、苦しんでいるのは誰ですか? あなたの肉体が苦しんでいるのですか? ではあなたは肉体ですか? それとも苦しいと言っている心があなたですか? ところでその苦しみとはいったい何でしょうか? こういったことを確かめていくことによって、「苦しんでいるわたし」が幻想であること、「苦しみ」もまた幻想であることを見出していきます。その果てには、幻想をすべて排除してあとになにが残るのか? という根本的な問いがあります。それは存在している感覚です。わたしは在る、とか " I AM THAT I AM (わたしはわたしであるところのものである)" と表現されるこの存在の感覚こそが、非個人的な唯一の主観性、すなわち真我です。

ともあれ、ヨガナンダはこれには答えることができなかったようです。わたしは、このときのヨガナンダは知識としては行為者が幻想であるということを知っていたと思います。しかし、ラマナ・マハルシという聖者を前にして直截経験(つまり知覚)していないただの知識を口にすることは、誠実なヨガナンダにはできなかったのでしょう。


さて、記事はこれで終わりにします。この本の面白いのは、質問者の問いに対して「師は答えなかった」とか、横から他の弟子がなにか言ってるところがちゃんと記録されていたりして、サットサンガの生々しい空気が伝わってくるところです。ラマナ・マハルシは聖典からの引用も多用しているので、そのへんはわたしにも意味が分からないのですが、読む価値は十分あるでしょう。ただし、「わたしは誰か?」は「わたしとはなにか?」に置き換えて読むようにしてくださいね。


おまけ

なかなかすごいです。初めて見るものも多く、わたしも少しずつじっくり観ています。

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