ラマナ・マハルシの『私は誰か?』解説その3
※タイトル写真は以前訪問したアルナーチャラ(大嘘)の茶畑。
紫蘇が植えられているのは紫蘇が嫌いなウンカ対策。
引き続き『私は誰か?』の解説。
取りこぼしも沢山あるだろうけど、それも重々承知の上で書いてまいります。
取りこぼしたところは皆さん各自補完していってください。
問8 心の本性とは何でしょうか?
回答は上の通り。
「心(マインド)」、「想念(思考)」「世界」といった用語については前回解説したので、それを参照してください。
ただ、英語版のPDFだと
の後に
という対となる一文が続くのですが、日本語版では端折られております。
「なんでーどういうことー」と思ってしまうし、短い文章なんだから忠実に訳せよと思うのですが、まあ英語版を読めば済む話です。
あと英語版についても、PDFのやつと参考文献のやつとではちょっと文章が違ったりするけど、まあいいでしょう。
それは置いといて、本質問の回答をまとめると、
思考があるからマインドもある。思考が無ければマインドも無い。
思考があるからその思考が反映された世界がある。思考が無ければ世界も無い。
よって、思考こそがマインド&世界のコアである。
マインド&世界は、思考抜きの独立した単体で存在することはできない。
思考も全く独立して単体で存在することはできない。思考は常に何かに依存して存在している。
てな感じで、「じゃあ思考は何に依存してんの?」については次の問いに書かれています。
あと注意して欲しいのは、
What is called ‘mind’ is a wondrous power residing in the Self.
とあるところ。
別にevil powerとかhateful powerとか書かれていないので、思考やマインドや世界を敵視しないようにしましょう。
まあこんなこと書いても「この世が憎い!人生が憎い!私が憎い!…これも全部ディープステートやギフハブやゴリホーモのせいだ!」なんて思っている人もいらっしゃることでしょう。
それも一つの恩寵なので、それはそれでいいんじゃないでしょうか。
「粗大」と「微細」
なお、本問で出てくる「粗大」と「微細」については、
粗大:なんか身体的なもの。
微細:なんか精神的なもの。
くらいの意味合いで捉えておけばいいです。どうせ概念だし。
問9 心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?
回答を手短に書くと、
まず初めに現れる思考は「私」である。
「私」という思考はハートの中に現れる。
「私」という思考が現れた後、他の全ての思考が現れる。
となります。
この「私」という思考こそが、あらゆる思考のエネルギー源で、「私」無しに思考は存在できないのであります。
本当に「私」という思考があらゆる思考に先んじて出てくるのか、それはここでグダグダ書かずとも、実際に思考を観察すればすぐに分かります。
ハートとは何か
本問で誤解を生みそうなのが「ハート」という言葉について。
英語でもheartになっており、心臓とか胸の辺りのことだと思ってしまいそうで、ラマナ自身も便宜上そう言ったこともあるようですが、参考文献の注釈によると
ハートは特定の場所を指すものではない。身体の内にも外にもない。
人間の本質(real nature)がハートである。
なんて書かれているので、「ハート=真我」みたいなものであります。
「思考なんて脳の電気信号なんだから、ハートとは脳のことだろ」と馬鹿なこと言うのがいるかもしれませんが、
脳の電気信号になっている時点で既に「私の身体」の範囲内であり、「私とはこの身体だ」と思い込んでいるのと何ら変わりません。
電気信号やら脳やらが出現する前の「何か」、色受想行識の五蘊が出現する前の「何か」こそがハートなのであります。
よって、
なんて書かれていて、なんか『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』というゴーギャンの傑作を思い出しましたたヮ。
というか、私のヘボ訳なんかよりもChromeの翻訳機能の方が精度が高くない?
↓の参考文献サイトも英語ですが、Chromeの翻訳機能なら日本語で読めるようになり大方の意味は分かるから、文明の利器を有効活用しましょうということで、長くなってきたので今回はここまで。