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広島郷土史:大正編(3)原爆ドームと俘虜収容所とバームクーヘン

広島の産業育成のために建設された「物産陳列館」

「原爆ドーム」は、かつて「広島県物産陳列館」として1915年(大正4年)に開館した建物でした。この場所は、元安川に面した旧浅野藩の米倉があったところで、物流の拠点にもなっていた市内繁華街の一等地でした。
 
その後、1933年(昭和8年)に「広島産業奨励館」に改称され、原爆により倒壊した後、現在は世界遺産に登録され保存されています。

在りし日の「物産陳列館」(出典:Wikipedia「原爆ドーム」より)

この施設の前身は、1878年(明治11年)民間主導で造られた「物産陳列館」だったと言われています。
明治維新後、不景気に陥った広島の産業を育て雇用を生み出すことが目的でした。しかし、残念ながら1880年(明治13年)に廃止となってしまいます。
 
その後、広島県の主導で「物産陳列館」の再建構想が動き出し、1911年(明治44年)になって、ようやく宗像政(むなかた ただす)知事のもとで起工式が行われ、元安川河岸の埋め立て造成工事が始まりました。
 
宗像知事は、かつて西南戦争に西郷隆盛軍の味方として参戦したこともある熊本出身の自由民権運動の活動家でした。その後、衆議院議員となり、埼玉県、青森県、福井県、宮城県、高知県などの県知事も歴任されています。
 
そして、1915年(大正4年)、新たに赴任した寺田祐之(てらだ すけゆき)知事は、県物産の改良増進を図り,関連産業の発展に貢献するために、と強力に建設を推進し、ようやく「広島県物産陳列館」が完成したのでした。
 
寺田知事は、長野県出身の内務官僚で、鳥取県、岡山県、宮城県の県知事も歴任した方でした。彼は、チェコ人の技師、ヤン・レッツエルさんに「広島県物産陳列館」の設計を依頼しました。

ヤン・レッツェル氏(出典:Wikipedia「原爆ドーム」より)

ヤン・レッツエルさんは、日本三景のひとつである宮城県の「松島」にあった「松島パークホテル」を設計した技師であり、寺田さんが宮城県知事であった時から面識があったのです。
 
奇しくも、日本三景のひとつである「安芸の宮島」に近い「広島県物産陳列館」の設計にもヤン・レッツエルさんが関わっていたことには、不思議な縁を感じてしまいます。

かつての「松島パークホテル」(出典:Wikipedia「原爆ドーム」より)

完成した「物産陳列館」では、様々な催し物が行われましたが、その中でも大きなものとしては、以下があります。
 
・1915年(大正4年)広島県物産共進会(大正天皇ご即位の記念として)
・1916年(大正5年)第1回広島県美術展覧会
・1919年(大正8年)似島独逸俘虜(にのしまどいつふりょ)技術工芸品展覧会

広島県物産共進会を記念した絵葉書(出典:Wikipedia「原爆ドーム」より)

似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」は、9日間で約16万人が来場したという大盛況の催しで、広島の人々に大きなインパクトを与えました。
 
この展覧会には、油絵、水彩画、ペン画、蒸気機関車や船の模型の展示のほかに食堂もありましたが、何と言っても特筆すべきは、広島市民がドイツの「食文化」に触れたことです。
 
この「展覧会」に出品されたことで日本に広まったドイツの食品には、「バームクーヘン」と「ソーセージ」などがあります。
本稿では、ドイツ人捕虜であったカール・ユーハイムさんによって紹介された「バームクーヘン」をとりあげます。

ドイツ文化を吸収するための「似島独逸俘虜収容所」

さて、その前に「似島独逸俘虜収容所」について説明しておきましょう。
 
1895年(明治28年)、日清戦争から帰還する兵士のために、旧陸軍が似島(にのしま)に「検疫所」を建設しました。似島は、復員する日本兵たちが上陸する広島の宇品港の対岸に位置する島であり、海外からコレラ菌などの病原菌が国内に入らないように「検疫」をするのに最適な立地でした。
 
その後、1905年(明治38年)に日露戦争で捕虜となったロシア兵を収容するために「俘虜収容所」が検疫所に併設されました。
 
第1次世界大戦が始まると、日本は連合国側について参戦します。
1917年(大正6年)、日本がドイツの占領していた中国山東省の青島(チンタオ)を攻撃した際、捕虜となったドイツ人たちが、この似島に送られて来ました。
この収容所には、ドイツ将兵536人とオーストリア兵9人の計545人がいたとのことです。
 
日清・日露戦争以降の日本は、「国際社会での優等生」であることを海外に示すために、「ハーグ陸戦条約」を遵守し、捕虜たちに自由を許す模範的な待遇であることを積極的に宣伝しました。
 
施設内では、スポーツや音楽などのレクレーション活動だけでなく、様々な職人の方々の「製品づくり」も認められていました。
 
同時に、西欧の文化を取り入れるための窓口になることが、当時の「俘虜収容所」の役割でもあったのです。
「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」が開催されたのも、その一環でした。

二度の世界大戦と関東大震災を乗り越えたユーハイム夫妻

1919年(大正8年)、ドイツ人捕虜であったカール・ユーハイムさんは、故郷ドイツの菓子である「バームクーヘン」を、日本で初めて「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」に出品し、販売しました。
 
彼は、日本人向けにバターを少なくした味に改良するなどの工夫をしたため、この「バームクーヘン」は広島で大評判となりました。
 
当時の「中国新聞」は,「菓子即売所の前は場内一の雑踏,三人の俘虜係員が眼の廻る忙しさ」であったと報じています。

カール・ユーハイムさんと妻のエリーゼさん(出典:ユーハイム公式HPより)

自由の身になっていたカール・ユーハイムさんは、日本に残る決断をして、エリーゼさんと息子のカールフランツさんをチンタオから呼び寄せます。
その後、横浜で「E・ユーハイム」(もちろん、Eは妻、エリーゼさんの頭文字)という菓子店を開店します。
 
妻の発案に従って、ケーキだけでなくドイツ風の軽食も出すことにしました。これが大当たりして、店は大いに繁盛したとのことです。
 
しかし、関東大震災に罹災し、せっかく夫婦で築き上げた店を失ってしまいます。横浜の店が倒壊した際には、カール・ユーハイムさんに残された財産は彼のポケットにあった5円札の一枚だけでした。
 
そこで、再起を賭けて一家で神戸へ移住し、「ユーハイム 神戸1号店」を三宮で開業します。この店は、谷崎潤一郎の小説「細雪」にも登場する評判の店となりました。

ユーハイム 神戸1号店(出典:ユーハイム公式HPより)
ユーハイム 神戸1号店の店内(出典:ユーハイム公式HPより)

しかし、第2次世界大戦がはじまり、またしてもユーハイム夫妻は苦難の道を歩むことになります。
夫のカール・ユーハイムさんは、終戦前日の1945年8月14日に病で亡くなられ、その後、妻のエリーゼさんと息子のカールフランツさんも、GHQの命令でドイツに強制送還されてしまいます。
 
戦後、「ユーハイム」を再建した弟子たちの嘆願により、1953年に妻のエリーゼさんは再来日を果たします。そして、「良い材料を使い、手作りを大切にして、自然な味わいを追求する」という夫の信念を継承するために「ユーハイム」の会長となられました。
 
エリーゼさんは、1971年に神戸で亡くなられるまで、「バームクーヘン」を始めとするドイツ菓子の普及と「ユーハイム」の発展に貢献されたのでした。

バームクーヘン30 (出典:ユーハイム公式HPより)

尚、表紙のイラストは、優谷美和(ゆうたにみわ)|note さんのものをお借りしました。誠に有難うございました。

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