HKB(10)日本に電話を広めた沖牙太郎の起業家精神(前編)
沖牙太郎、広島を飛び出して上京する
2024年(令和6年)の日本の携帯電話加入数は、約2億2000万件だそうです。また、固定電話の加入数は約6000万件となっています。
従って、携帯電話と固定電話の合計加入数は、約2億8000万件となります。(総務省統計局資料による)
日本で「電話事業」が始まったのは、1890年(明治 23年)年のことでした。当時の加入者数は、わずか197件でした。
つまり、この134年間で「140万倍以上」に増加したことになります。
今回は、日本に電話を普及させた明治時代の起業家を紹介します。その人物とは、沖牙太郎(おききばたろう)です。
沖牙太郎は、1848年(嘉永元年)、安芸国沼田郡新庄村(現広島市西区新庄)の農家に、6人兄妹の末っ子として生まれました。沖家は代々、村役を勤めており広い田畑を所有する大きな農家でした。
牙太郎は、幼年期から負けず嫌いな性格だったそうです。
相撲が大好きで「相手の肩先に食らいついたら離さない」という執念をみせ、勝負に拘ったという話しが残っています。
牙太郎は大きくなると、「百姓はいやだ、大工になりたい」と言い出します。両親は、幼いころから手先が器用だった牙太郎の将来を考えて、植木職人の吉崎家に養子に出すことにしました。
ところが吉崎家に入ると、牙太郎は、従兄の銀細工師について修行を始め、日本刀の装飾などの技能の習得に熱中し始めました。
しかし、時代は明治へと移り「廃刀令」が出されると、刀の銀細工の需要はめっきり減ってしまい、銀細工師では生計を立てることが難しくなりました。
1874年(明治 7年)、27歳の牙太郎は、吉崎家を飛び出して東京へ向かいます。汽船で横浜まで行き、横浜から汽車に乗り、ようやく新橋駅へ到着しました。
牙太郎は、この時のことを、「憧れの帝都、新橋駅に降り立った時は、まさに茫然自失、さながら夢境(むきょう)をさまよう心地であった」と後に述懐しています。
東京に頼れる身寄りがなかった牙太郎は、同郷の先輩であり、工部省電信寮の修技科長をしていた原田隆造(はらだりゅうぞう)のもとを訪ねました。
ここで、原田隆造についても紹介しておきましょう。彼は、幕末の京都で活躍した広島藩の尊王攘夷の志士でした。
もともと原田家は、野村家・品川家と並び,全国的にも著名な「安(やす)の目薬」を製造する家でした。幕末の頃の原田家の当主は、原田臺造(だいぞう)という方で、安村の村長も務めています。
この原田臺造の兄が、原田隆造だったのです。
1866年(慶応2年)、原田隆造は広島藩に召し抱えられ、木原秀三郎・小林柔吉・船越衛らの尊皇攘夷派の広島藩士と共に、倒幕運動に奔走しました。
木原秀三郎らの神機隊結成に参画して後、戊辰戦争に参戦し、上野の彰義隊への攻撃にも加わりました。
維新後、上京して品川砲台長を務めましたが,明治6年には工部省電信寮の修技科長に就任しています。
沖牙太郎が上京して来たのは、ちょうど、この頃だったのです。
のちに原田隆造は工部省を退き、司法省に入省して上席検事にもなりました。原田隆造のことは、以前にも記事を書いていますので、ご興味があるかたは是非どうぞ。
沖牙太郎、工部省「製機所」で頭角を現す
原田隆造は、同郷の広島出身である沖牙太郎を「書生」として、自分の屋敷に住まわせてくれました。その日から、主人の弁当を持って工部省電信寮に通うのが、牙太郎の日課となります。
電信寮には電信機の操作を教える「修技校」と、電信機を製作する「製機所」がありました。
銀細工師だった牙太郎は、原田隆造についてそこを訪れるうちに、次第に電気の世界に惹かれるようになります。自らヤスリを持参して、製機所の手伝いをするようになっていました。
沖牙太郎は人柄がよく、すぐに周囲から認められ、1874年(明治7年)の7月には工部省の御雇(おやとい)になり、8月には正式に電信寮の雑役に採用されました。
採用試験に際して、牙太郎は履歴書と共に自作の「銀の簪(かんざし)」も提出したそうです。これが電気寮のトップの目にも留まり、牙太郎はその人柄だけでなく優れた技量をも認められ、「製機所」に正式採用となりました。
こうして、沖牙太郎の眼前に「技術者として身を立てる」という展望が開けて来たのです。
「製機所」とはいえ,そこに集められた職人たちは、それぞれ工芸の技能はありましたが、電気の知識はほとんどありませんでした。すべては「お雇い外国人」の技術者、ルイス・シェーファーに、いちから教わらなければならない状態でした。
シェーファーは、電気の知識を見込まれて来日したのですが、もともとはスイスの時計職人でもありました。
彼は練達の職人で、1本のドリルの歯の「焼き入れ」の具合を見て、製作した人の技量を見抜く、という神業を発揮したそうです。
シェーファーの指導のもと、牙太郎は、同僚の田中精助,荒木勘助といった技術者たちと、練習用モールス電信機の製作に取り掛かり、徐々に技術を習得していきました。
牙太郎は、シェーファーにその勤勉さと才能を認められ、旋盤(せんばん)技術をみっちりと仕込まれました。
1875年(明治8年)、シェーファーは任期を終え、日本を去ります。その際、シェーファーは、牙太郎に旋盤を担当する「技工」の地位を与え、記念にと「サイン入り」の家族写真をプレゼントしてくれたそうです。
沖牙太郎、「ヤルキ社」を設立する
やがてシェーファー氏が日本を去った後、製機所では田中精助が所長になりました。「技工」に昇格した沖牙太郎は、中堅の技術者として活躍します。
ちょうどそのころ、通信の世界では大きな技術革新が起こっていました。1876年(明治9年)3月に、アメリカのアレクサンダー・グラハム・ベルによって電話機が発明されたのです。
早くも1877年(明治10年)11月には,横浜のバヴィア商会がこれを日本に輸入し,工部省電信局(同年に電信寮から改称)に納入しました。これは、アメリカの電話機輸出の第1号と言われています。
従来のモールス信号の電信機とは違って、「人間の声」を遠くへ伝える「電話機」を見て、牙太郎たち技術者は驚きます。そこで、電信局製機所では、1878年(明治11年)から電話機の模造に取り掛かることになりました。
その後、牙太郎らは、ベルの電話機の模造に成功します。その電話機で通話実験をした結果は「幽霊の音声を聞くごとし」と評されましたが、 輸入したベルの電話機でも、当時はそのような音質だったのです。
翌1879年(明治12年)、沖牙太郎は、同僚の三吉正一、田岡忠次郎、若林銀次郎らと共に、電信局に所属したままで「ヤルキ社」というグループを結成しました。
「ヤルキ社」とは、「ヤルキ(やる気)」と「エレキ(電気)」を掛けた洒落っ気のあるネーミングで、いかにも若い情熱にあふれています。
このグループは、電話機に使用する部品の国産化を目的として結成されました。やがて、沖、若林、田岡の3人は、電話機の部品の国産化を実現し、工部省から表彰されることになります。
この実績に自信を深めた「ヤルキ舎」のメンバーたちは、電信局の初代電信頭であった石丸安世(いしまるやすよ)の屋敷内にある長屋を借りて、「下請け工場」を始めます。
この石丸安世という人物は、佐賀藩出身の逸材でした。
幕末期には、長崎の海軍伝習所で勝海舟らと共に学び、のちに佐賀藩の英学学習所「致遠館」でフルベッキに師事し、英語をマスターします。その後、英国にも留学し、数学や造船、電信も学びました。
工部省の初代電信頭に就任してからは、東京―長崎間での電信線の架設という大事業を成し遂げ、石丸安世は「日本電信の祖」とも呼ばれています。
「ヤルキ社」は、石丸安世の支援を受けながら、この工場で電気製品の製造や新製品の研究などを行いました。この時の体験が、のちの沖牙太郎の「独立起業」への伏線となるのです。
(前編おわり → 後編へ続く)
なお、表紙の写真は 優谷美和(ゆうたにみわ)|noteさんのものをお借りしました。誠に有難うございました。
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