冷風はじめまして
浴室と洗面所の境目に足指が引っ掛かると同時に、到底シャワーでは洗い流せなかった、昼間の言葉がざあざあ降ってくる。
「正直イヅツさんと仕事、やりにくいよな」
「仲間意識持たれても年齢的には先輩だし、どっちにしろ新卒の俺達とは違う」
「初対面で『有名人だから採用されたんですか』って質問しちゃったわ。あっちは喜んでたけど、皮肉だっつーの」
ちょっとした段差に躓き、じんと痛むならばまだしも、あれらはぐさりと突き刺さって抉り、結果あちこちに様々な傷口ができた。
しみては悲鳴を上げ(よせばいいのに)瘡蓋を剥がすような愚か者が俺だ。
今更、遅い?
〈あなた方のおっしゃる通り〉でぐうの音も出ず。振り込まれた初任給を見て、現時点でのチャンネル登録者数より少ないと思ってしまう自分が、他所で働き始めればこうなる。
カチッ。
カチャ、ブチ。
気を取り直して、びしょ濡れの身体をごしごしとバスタオルで拭き、頭皮には優しく。
プラグを洗面台のコンセントに挿し、いつものようにスイッチを押すも反応がなく、諦めて引っこ抜いた。
使う度にコードがねじりパンの如くツイストされていき、ついにヘアドライヤー本体が壊れる。
「今日は散々だなぁ」
動画を撮影していなくとも独り言ちて、暖色の照明が当たる中で服を着た。鏡に映る表情の滑稽なことといったら(この些細な出来事すら面白おかしくネタにしてやろうか)。
「そうね」
突然、背後の棚上に置いたスマートフォンの、恐らくアシスタント機能が馴れ馴れしく俺の声に応える。
話し相手には打って付けだが、設定した覚えがまるでない。咄嗟にびくっとして軽く飛び跳ねた後に耳を疑う。
「あたし、辛うじて冷風なら出せるのよ。どうかしら」
喋ったのは、コードでぐるぐる巻きになった買い替え時の黄色いドライヤーだった。瞬く間に鳥肌が立ち、寒気を感じる。
俺はかなり疲れていたらしい。
要するに(悪?)夢である。
昨晩、恐れおののいて布団に入るも五分程度で寝た。大音量のアラームに起こされて、普段の朝、支度に追われ、ほっと一息、茶漬けの旨味が染み渡る。
但し、出掛けに
「いってらっしゃい」
と言われた。
彼女の存在は現実、聞こえてしまった同期社員の本音、約十年続けた投稿、就職活動をせずに〈好きなことで生きたい〉との凄まじい執念、などが頭を駆け巡る。
おっと。横断歩道の手前で止まった。
俺があのドライヤーを捨てられなかった理由は流行に乗り、両親の反対を押し切って〈専業〉に定めた頃、企画を考えつつ家電量販店に行き、「うわぁ、本物のイヅだ」と目を輝かせて走り寄ってきた子供と、その父の「すみません、騒いじゃって。息子にとってのヒーローなんです。会えて良かったね」という、ありふれた短いシーンを未だに編集でカットできない、寧ろハイライトにしておきたい、から。
いつの間にか数名は渡り終えて、三つ編みに見惚れ、後続車にクラクションを鳴らされる。ねじねじ。
検索エンジンにイヅツ、と打てばサジェストに『引退』『事務所クビ』『女』云々がずらり(しかし殆ど噂話でああだこうだ、書き連ねた者の鼻は伸びる、多分)。
ショートビデオへの切り替えが難しく、自信作に限って再生回数が酷かった。
ライブ配信を始めても、主なファンは成長につれて離れていき、人気は落ちる一方、同級生とのライフステージも異なり、挙げ句の果てに恋人が愛想を尽かし
「夢追う男を支えて養うの、売れるまで、とか。永遠に来ないでしょ」
別れ際に痛恨の一撃、アップロード寸前で誤ってデータが消え去った初期のよう、流石に効く。
消費サイクルの速さに危機感、毎日投稿……明け方とカフェイン、ぬいぐるみの山、自宅が職場で閉じ籠もり、常に何かしら作らなければ埋もれ……最早クリエイターの俺は無価値だと、仄暗い渦を巻いて、ぷつんとパソコンを閉じ、
「いや。そんなことなくね? 新しく探そ、スキル活かせるかも知れん」
コメディに変えていこう、で現在に至る。
コピーアンドペーストの笑顔や〈みんなと仲良く〉の明るい姿勢も全てはイメージに繋がり、けちを付けられるのには慣れた筈、なのに。会社の裏に錆びた螺旋階段があり、しかも初めて見て、上司に「そこら辺で拾った」謎のボルトを手渡された(もう怖い)。
くるくる。全速力であいつが迫ってくる。
俺は初心を忘れたくないので動画に幾度かちらっと出演させた。
視聴者から『まだ使ってる』『何に警戒してんだよ色』『もっと便利なやつ買えば』『私のおすすめは〇〇』なんてコメントを貰っても。
ただでさえ断線しかけて、あちらがうんともすんとも動かなかったら、いよいよメッセージは分からず終いだろう。
早めに腹を割って話す。そう決めて、駐車場に向かう足取りは今朝と大きな違いがあった。
どこからともなくカッコいいエンディング・テーマが聴こえる。
「お帰りなさい」
洗面所の電気を点けると、低くかさついた声に迎えられた。言わずもがな、どんどん悪化している。勇んだ、が、忽ち心配に。
「俺はあなたのことが知りたかった。だけどさ、ゆっくり休んで。頑張って喋らなくてもいい」
手洗い・うがいを済ませ、彼女の捻れた部分を少しずつ真っ直ぐにしながら、語り掛けた。
「まあ、大袈裟だわ。風邪みたいなものよ。あたしの名前はポニ、お疲れさま」
風を送るドライヤーが風邪とは、これいかに。昼夜閉め切った部屋はむわっと、湿度が高く汗ばむ。
「ありがと。自然乾燥で充分」
と返してシャツを脱いだ俺にポニは
「こんな風にあたしを、大切に扱ったり、優しいだけじゃ、お金にならなくって。周りからしょっちゅう言われていたわね。でも、好かれるところ、お願い」
どうか失わないで、と弱々しく付け足す。
ぽつん。浴室にて、空のバスタブに水滴が落ちる。項垂れたシャワーヘッド、不安定な換気扇の音、白い床はやけに眩しかった。
過去が絡まる。
転職に伴い、SNSの更新をやめて、「さようなら」は告げずに最後の動画を撮った(湿っぽい雰囲気は避け、極めてほのぼのと)。
銀に季節の淡いカラーを取り入れた自分らしさは封印、傷んだ髪を黒く染める。
やがてインターネットで憶測を呼び、『また会えるよね』『〇ヶ月経っても待ってる人いる?』が増え、各自イヅツとの思い出を綴る。卒業文集のようで、そこから目を逸らした。
無論、チャンネルの削除を考えたが「残しておいて結構」ーーお心遣い感謝いたしますーー。
却って未来に進めず同じ場所で回る。
さておき、久しぶりに夢を見た。
ポニと出会った日の、親子のうち、父が今もなお動画を観ており、コメント欄で名乗り出る。
『大勢の中のひとりかも知れません』
(こちらの台詞だよ)
『写真を撮るばかりか息子に付き合い、たくさん笑わせてくれて』
(田舎の従兄弟と遊ぶ感覚で、楽しかったな)
『ずっと好きです。たとえ届かなくても伝えたい、今後もイヅくんを応援します』
ともすれば教室の黒板に貼られそうな、くすぐったい長文のファンレターを読んで、はっとさせられる。俺が捨てられなかったのは古いドライヤーと、高いプライド。
編まれたメタリックな糸が、すうっと解けて、全身を通り抜けた。
爽やかに木の葉が揺れ、瞼を開ける。
ブォォォン、フオ、フッ。
「ふぅ。やっぱり、冷風だと時間がかかるわ。いい加減にあたし以外を使ってちょうだい」
定位置にぶつくさうるさいポニを収納した。尻尾のぶら下がるコードは元通りにならない、あまつさえ梅雨で俺の髪もうねる。あたかもパーマの如し、会社でヘアスタイルを変えたかどうか、尋ねられた程。
タオルを丸めて洗濯機に突っ込み、
「はいはい」
相槌を打ってリビングに移る。
ガラスのコップに入った濃い麦茶が喉を通っていく。
率直に述べると描いた理想と現実の落差を感じた、とはいえ最近は演技なしの自分自身を認められる。
「果たして、次はどんな相棒が来るのかしら、待ち遠しい!」
通販サイトを覗くつもりでスマートフォンに触れると、彼女が囁き声を振り絞った。意外な追い風に笑いが込み上げる。
「こっそり俺に教えて。他の子も喋るの?」
「ヒ、ミ、ツ」
もうじき、夏。