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リアリティフィクションと額縁


 
 しまった。曜日の感覚がなく、よりによって路線バスの最終便を逃した。
 背中にじっとりと汗をかき、駅前広場の停留所で時刻表とスマートフォンの地図アプリを見比べる。
 徒歩だと現在地から自宅まではおよそ一時間かかり、小雨が止んで湿った地面は街路灯に照らされ、橙色の模様を作って、ぽつぽつとまだ人の姿があるとは言っても気が遠くなった。

 周辺に住む旧友を思い浮かべるも、どこぞの公園で青い花に囲まれた幻想的な写真を起き抜けにぼうっと眺めた、ような。あちらの咲き誇るファンタジーと、こちらの枯れかけたリアルはさながら旅行の距離感。


 という訳で、やむを得ずくるりと振り向けば、タクシー待ちの列ができている。
 そこに並ぶのは実に四年ぶり、幾つか前のカップルらしき二人組が車種について「あれはやだ」「これがいい」と(酔っ払いだろうか)。
 耳を澄ますと男の方が熱っぽく語り、女は「へえ」でテンポよく遇らう。ウンチクどころではないが、暇潰しには丁度良かった。


 一旦停まっては、誰かを乗せて走る。
 車窓に貼られたステッカーの量は明らかに増えており、「閉店したスーパーあんぶれらまで」と伝えても通じぬ恐れが強かった。
 何せ普段は在宅勤務で、眠れずに羊を数える合間に世界が変わってしまうこともままあり、時折こうして外出しなければ、自分はいとも簡単に、凄い速さで取り残される。

 現に通りの飲食店はほぼ入れ替わり、更地の心を埋める目的地など然程重要でなく、兎に角、ただひたすら突き進み、辿り着いては達成感を味わう。仕事でもまた、細やかな寄り道を楽しむ余裕がなかった。


 GENYAーー。
 即ち幻夜。このような日は決まって、実家のリビング、壁に飾られていた絵の下部にでかでかと入った単語を思い出す。共に育った兄妹の如く、暮らしに馴染んで随分と色褪せ、そこはかとなき明るさは夜より朝昼のどちらかだった(原野、かも知れないけれど)。

 
 さて、と。
「こんばんは。お足元にご注意の上」
 目の前でドアが勢いよく開き、それに驚いて、乗り込むなり遮るように行先を告げる。
 感じが悪いにも拘らず、運転手は物腰の柔らかい紳士で、透明の仕切り越しにシートベルトを締める客を気遣った(そう言えばさっきの男が文句を垂れた一般的なタイプだが、何が不満なのやら)。
 初見のモニターに目を奪われる。かつてはお喋りな人との会話で繋いだ間が、動画になるとは、何とも興味深かった。


「こちらのルートでよろしいでしょうか」
 窓外の景色はそっちのけで画面に視線を注ぐと、控えめに確認される。
 言い換えれば『(地元では有名な)近道を通っても良いか』?
 暗黙の了解で今まで聞かれたことがなく、ぱっと顔を上げ、彼につられて丁寧な返事をした。からくりオルゴールのような温もりと優しさに触れると胸がじーんときて、「自分もそうなりたい」と思う。
 おまけに一度きりの人生において、無難な、同じものを選んでばかりいる。

 しかし、本当は。


 じっと考えるうちにタクシーをスーパーあんぶれらの跡地とアパートの中間にきっちりと停められ、あたふたとショルダーバッグのあらゆるポケット内を探し、動物たちの刺繍が施された、折り畳み財布の中身を掻き集めた。

「あっ、現金払い。お釣り無しで、出せます」
不慣れ故の言動に、
「誠にありがとうございます」「お忘れ物はございませんか」「小雨でしたが、滑りやすくなっておりますので」
が、ぽんぽん返ってくる。


 親切な呪文、急かされた気はしなかった。降りてすぐに過ぎ去りもせず、緩やかに元の方向へ進んでいく。
 深夜料金の始まりから三十分以下、ぽつねんと、背後にどことなく浮いたメルヘンチックなレンガ造りのアパート、自分(でなく主人公)は運転手の幸せを密かに願い、ふっと微笑んだ。

 今宵の全ても、GENYAの中に思い出のモチーフとして新たに描かれる。

 あくまで一枚の絵に加わる、【物語】に過ぎない。