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「でんでらりゅうば」 第30話

 その翌年のことだった。春先、雪囲いの片づけや畑の作付けの準備などで村人たちが忙しくなる時期を見計らって、安莉は逃亡した。
 そのころになると人々はすっかり安心して気が緩んでいたらしい。ある日恐る恐る階段を下りてみた安莉は、クローゼットを開け、いつも男たちが出入りしている抜け道の入口の扉に鍵がかかっていないことに気づいた。
 安莉は震えながら、その扉を押し開いて一歩踏み出した。そこは暗い洞窟で、季節を問わぬひんやりとした空気に満ちていた。一寸先も見えぬ暗闇のなかを手探りで進んでいく。漆黒のトンネルは途中で右向きに進路を変え、その先はしばらく緩やかな下りの傾斜が続いた。村に着いたあの日、阿畑に荷物運びを頼まれた若者は、この道を使ったに違いない。確かに、重い荷物を持って急な坂を上るより遙かに楽だ。そう合点した。
 音を立てぬよう慎重に進んでいくと、ついに出口とおぼしき行き止まりに辿り着いた。そこには木でできた扉が据えつけられていた。扉にはやはり鍵がかかっていない。最後に安莉の部屋を訪れた男が無精をしてかけ忘れたらしい。ここにも、警備の緩みが感じられた。
 安莉はその扉を細く開け、外の様子をうかがった。そこは村の西端あたりのように見受けられた。いつものとおり、細い通りには人っこひとりいない。
 みな自分の家の作業をしたり、畑に出たりしているのだろう。そして村の人間の半数は、いつものように前の逃亡者の痕跡を探しに、山に入っているのだろう。
 自分も捕まれば、彼らと同じように殺されて土に埋められるのだろうか。
 そう考えると体が震えた。すみたつの気質に代表される、この村の素顔は知り尽くしている。せいの家に子どもを二人もたらしたといっても、逃亡を企てた人間が許されることはないだろう。
 心臓が激しい動悸を打ち、扉をつかむ両手は震え、足から力が抜けそうになった。けれど安莉は諦めて引き返す気にはなれなかった。

 こんな暮らしにはもう耐えられない。自由になりたい。それが駄目なら、死んだほうがいい。

 そう思って、しぼむ勇気を奮い立たせ、いちの望みに賭けて、安莉は扉を開いた。
 外に出たのは何年ぶりだろう。のどかな山村の風景が広がっていた。空気がおいしい。空は晴れて、小鳥が歌っていた。
 別の状況だったらどんなに心なごんだだろうと思うと、その異様さに鳥肌が立った。
 安莉は足音を立てないように素早く走った。村人には誰も会わなかった。まさか日中堂々と、女がひとり逃げ出すとは夢にも思わないのだろう。
 すぐに村の入口に辿り着いた。あの日、阿畑に連れられて初めて村に入った場所である。そこで安莉は振り返った。台地の上に、あの白いアパートが見えた。山の斜面に沿って、小洒落たアート建築のように建つそれが、いままでずっと自分を監禁していた恐ろしい独房だとはとても思えなかった。
 弾かれたように振り返ると、安莉は走りだした。村の入口にも人間は誰ひとりおらず、拍子抜けなほど簡単に脱出することができた。
 あの日ばたが車を停めた場所から見下ろせる道路には、車の姿も一台も見えず、開けた場所だけに誰かに見られはしまいかと緊張したが、鬱蒼と木の生い茂る細い山道まで何とか無事に下りていくことができた。
 そこからは森のなかに入って、木の陰に隠れながら進んだ。逃亡者の痕跡探しをしている村人に見つかることのないよう、周囲に気を配り、音を立てないよう細心の注意を払った。勾配の激しい山の斜面は歩きにくく危険だったが、車道に出ようとは思わなかった。いつ下の村から帰ってくる阿畑や古森佐助の車に出くわすかわからなかったからだ。
 原生林のなかを、木や草に隠れながら、慎重に下っていった。村はどんどん遠ざかり、遠景に下の村が見えるまでになった。

 ――やった! 逃げられた――。

 ほっとした安莉は、少し休もうと、近くにあった大木の影に身を潜めてしゃがみ込んだ。
 ふーっと長い息を吐く。あの村から逃れられたのだという安堵が、体じゅうに浸み渡った。
 五分ほど休んで、立ち上がろうとしたときだった。やけに体が重く感じる。おかしい……。どうしたんだろう。
 思いながら、懸命に立ち上がり、再び前に進もうとした。が、急に猛烈なめまいに襲われて、倒れてしまった。
 嫌だ、どうしちゃったんだろう……。
 さっきまでは平気だったのに、今は体の自由がきかない。すると、段々と息苦しさがつのってきた。
 それでも這うようにして、一歩一歩進んだ。下の村まで辿り着かなければ。あそこまで行ければ、誰かに助けを求められる。
 安莉は力を振り絞って、山を下り始めた。だが下の村に近づけば近づくほど、体は言うことをきかなくなっていった。呼吸が苦しく、頭がはがねを打つように痛む。
 胸が圧し潰されるような苦しさを感じて、ひとつ咳をしたとき、口から飛んだ飛沫を見て安莉は凍りついた。
 山の斜面、散り敷いた落ち葉の上に、真っ赤な鮮血が飛び散っていた。それを見てパニックを起こした安莉は、悪循環に陥っていった。呼吸はますます苦しくなり、ゼエゼエという荒い息をしながらその場に崩れおちた。目の前の景色がぼうっとぼやけていき、体じゅうを駆け巡る血液がチリチリチリと音を立てているような気がした。
 もう指先さえ動かせなくなったころ、ふっ、と暗闇が訪れた。

 
 ――それからどれぐらい時間が経っただろう、ふと意識が戻った安莉は、側に数人の人間がいることに気づいた。
 誰かがひどく怒った声で悪態をついている。担架のようなものに乗せられた自分の体の上に、違う誰かが毛布をかけた。初めの誰かは、まだ悪態をついている。まったく、油断も隙もあったもんやなか。ようもまあこげな大それたことを……。もうひとりの誰かが答えた。まあ、見つかったけんよかったたい。どうせ逃げられんとやから……。仕込み、、、もうまくいったやないと。
 安莉は朦朧もうろうとした意識のなかで、声だけを聞いていた。
 彼らは、乱暴に安莉の体をロープで担架にくくりつけていった。いらつきの混じるその仕草には、一切身動きならぬといったいましめのようなものが感じられた。厳重に巻かれるロープは幾重にも幾重にも重ねられていった。
「……」
 涙が、目からこぼれ落ちるのがわかった。再び頭が割れるように痛み、そのまままた意識を失った。
 

 視界がぼんやりと明るくなり、ようやく目を開いたとき、上からふっと顔をのぞき込まれた。それはいし正利まさとしだった。
「気がつきましたか」
 怒っているのでも、嬉しそうでもない、平常心そのものの表情で正利は言った。安莉は顔を巡らせて周囲を見た。どうやら診察台のようなものの上に寝かされているらしい。そこは高麗先生の診療所だった。まだ見たことのない奥の部屋で、使い込まれた木製の台の上に、薬を調合したり煎じ薬を作ったりする道具が並んでいる。
 全身脱力しきって腕を上げることもできない安莉は、黙ったまま天井を眺めていた。
「高麗先生は今、村の会合に出かけています」
 正利は棚の引き出しから紙に包まれた薬を出しながら言った。
「苦しかったでしょう? 低地の空気は」
 さとすような調子で、背中越しに言う。
「あんな空気の濃いところでは、もう生きられませんよ」
「何ですって……?」
 しびれた全身に、ゾクゾク寒気が走るのを感じながら安莉は言った。正利は相変わらず平然として答える。
「体質が変わっているからです。あなたはもう丸《まる》村でしか暮らせない」
 振り向いて、紙の包みを開けながら正利は言った。なかには丸薬が入っていた。
 さあ、お飲みなさい、と言われて半ば強引に口にねじ込まれた丸薬を、抵抗することもできず安莉は飲み込んだ。
「これで楽になるはず」
 正利は言い、安莉の体を起こしてさらに水を飲ませた。しばらくすると、いままでの苦痛が嘘のようにやわらぎ、体がすうっと軽くなってきた。
「どういうことなの、これは……?」
 尋ねる安莉に、正利は薄く微笑んで言った。
「低地症です」
「低地症?」
 そう、と深くうなづいて正利は話し始めた。
「今飲んだのは、低地症を予防、治療する薬です。よく効いたでしょう? ということは、あなたがさっきまで完全な低地症の状態にあったということを意味しています。覚えていますか。高麗先生が、訪問のたびに毎日飲むようにと薬を持参していたでしょう? あのなかには、低地症を発症する体質になる薬が入っていたんです。もちろん逃亡除けです。この村の標高に留まっていれば何ともありませんが、低い土地に下りれば、村人が持つ低地症と同じ症状が出て、今回味わったような苦痛を感じるのです」
「もう元には戻らないの」
 呆然とした声で、安莉は聞いた。
「戻りません。もう二度と。体質が変わってしまったんです」
 正利は冷徹な声で即答した。
「どうして……そこまでするの……」
 絶望的な気分で安莉は言った。涙がひと筋、こめかみを伝って落ちた。
「村のためです」
 きっぱりと正利は言う。この若者もまた、一寸の迷いもなく、村の存続のためなら手段を選ばない村民のひとりなのだった。
「高麗先生はすごい方ですよ。この山の薬草をすべて知り尽くしておられる。調合の技術も一級です。低地症の治療薬を作っておられるうちに、低地症を引き起こす薬も作れるのではないかというアイデアを得られ、随分長く研究しておられました。それがようやく完成したのです」

 ――今回初めて効果が確認できたので、報告すれば先生は大喜びされることでしょう――。
 
 暗く重い世界に沈んでいきながら、安莉は正利の声を聞いていた。
 
 

 逃亡を企てて捕まったにもかかわらず、村は安莉を殺さなかった。すでに星名家の子どもを二人も産んで村に貢献していたことと、まだ他家にも子どもをもたらさねばならない使命が残っていることがその理由だった。だが当然のことながら、その後は警備が厳しくなり、始終監視が付くようになった。
 自殺や自傷を防ぐために、どこかしこで、いつも誰かが安莉を見張っていた。傷つけたり虐げたりすることはないが、綿わたで首を絞めるように、やんわりとしかし絶対的な軟禁網は、ほんの少しのほころびも見せず常に安莉を取り巻いていた。
 そしてもとのように、村の家々の期待を背負い、覚悟を決めた表情の男たちが、連日安莉の部屋を訪れるのだった。楽しんでいる者、気は進まないが仕方なく来ているといったような者、色々だったが、みな自分の家に一番に子を授かろうという願いはひとつだった。
 拒否することも抵抗することもできない。一日に一人ずつ、と銘々めいめいで決めて来ているのがせめてもの救いだった。


 ――長男の康竜やすたつと長女のゆいの後に、安莉は順にばた家、かげ家、いし家、古森ふるもり家にひとりずつ赤ん坊をもたらした。
 生まれてきた赤ん坊たちは、その容姿の形状から、どこの家の子どもか判断された。村人たちにしかわからぬが、明確な判断基準があるらしかった。
 例えば御影家の血なら、横に広いずんぐり型、砥石家ならほんの少し顔が長い、古森家は鼻が高く、阿畑の家の者は目と目のあいだが離れている……といった具合だった。
 赤ん坊が生まれると、判定役の男と各家の代表者たちが訪ねてきて、赤ん坊の顔と体を入念に調べ、その子はどの家の子かを判定した。安莉の特徴も入っているので、たまに判別の難しいこともあったが、いずれにせよ村の子であるということで、各家に平等に分け与えられているような節もあった。
 赤ん坊がどの家に行くか意見が一致し、判定役の男が声高らかに宣言をすると、宣言された家の者は、喜び勇んで赤ん坊を本家へと連れ帰っていった。


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