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2022年8月の記事一覧

【短編】そんなことのせいでキスをした

【短編】そんなことのせいでキスをした

今年で20歳になるというのに、きゅうたは人並みの恋愛をしたことがなかった。というのも、彼がした事のある恋愛といったら、他の人が普通経験しないだろうと思うようなものばかりで、そもそもあまり人から好かれることもなく、誰かを好きになることもめずらしいという彼の特質からくる要因が大きかった。だけど、きゅうたは愛情深い人間だった。友達が倒れた時は30分も走って看病しに行き、バスでは妊婦に席を譲って、その人の

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【短編】地平線

【短編】地平線

冬になると鈍色が辺りを覆うけれど、ひときわそれが顕著なのは空。ずっと暗いのに、陽が沈むのも早い。晴れや雨は好きだけど、曇りの日はあまり好きじゃなかった。母親の帝王切開で出来た古傷が痛んだり、僕も肺が痛くなったりするから。そんな雰囲気ってどうにもいたたまれない。
こういう時、このどんよりする痛みを誰かと分かち合えないものだろうか。僕の隣にいる彼女は、なんでもわかってくれるけど、それは何だか年長者が後

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【短編】将来について語るときに

【短編】将来について語るときに

熱海にあるヴィラには、テラスがあって、海が一望できる。そこには外付けの小さなバスタブとシャワーがあったが、部屋の中から丸見えだった。女子が好きそうな場所に思えたけど、四人とも使わなかった。使ったのは五人の男子のうちのふたりで、カーテンを完全に閉めて使った。同期九人、もう一ヶ月後には社会人となる歳だったが、ひとりだけ院進ということで他のみんなとの話題についていけなかった。私だけは、文学をやりたいと親

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【短編】父と弔辞と新聞紙

【短編】父と弔辞と新聞紙

うちの親父は変な人だった。信号が赤になった時に僕は親父のことを考えていた。車の後部座席には新聞を束にして積んでいた。

「いいか、付き合った女をどれだけ好きだったのかなんてのは、別れなくちゃだ。一番は離婚。」
なんでお母さんと結婚したの?と質問した幼き頃の僕にたいして、こんなことを言うような人だった。
「しょうもない理由で別れる奴らなんてのはな、そもそもしょうもないんだぞ。でも、愛が深いとな、きっ

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【短編】ありがとうって、あのこに言ってくるよ

【短編】ありがとうって、あのこに言ってくるよ

あるいは運が良ければ、こんなふうにふたりで歩くことはなかったのかもしれない。
ふたりにとって、この二週間というものは悲惨というと大袈裟だが、少なくとも穏やかではなかった。ふたりには大仕事が待っていたのだ。それは人生の中で大きな意味を持つものだった。これまでの人生は、このゴールに向かって一直線に伸びているようにさえ思えた。

店を構えて、一緒に働き始めるということ。新しいそれぞれの生活を始めるという

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【短編】飲むようになる頃には

【短編】飲むようになる頃には

ドーナツ屋に入ると、すぐにその子供は僕を見つけた。母親の膝の上に立って僕の方を見て、笑いかけてくる。思わず何度かウインクして、レジに向かった。

コーヒーとドーナツを受け取ってから席に着くと、ちょうど隣にその子がいた。母親は、友人とおしゃべり中で反対の方を向いていたので、僕とその子は、お互い睨めっこするみたいに見合っていた。
母親が気がついて、嬉しそうにしながらもその子を向こう側に向けて座らせた。

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【短編】アンティークになったら

【短編】アンティークになったら

1

そのカフェがとにかく好きになったのは、飲んだ事もないほどの深煎りのコーヒーと、オーナーさんや店員の気さくさが、僕の居心地を良くさせたからだ。
本当に毎日のように通っては、そこでコーヒーを飲み読書をしていた。このお店を知った当時は、とにかく観光客で溢れ、何度も来店を諦めたものだが、今はその観光客は消え、比較的入りやすくなっている。しかし、そのためか、本当に美味しいコーヒーを求めて、あるいは素敵

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【短編】漂流

【短編】漂流

割れるような拍手と歓声の中、俺は目を瞑っていた。
 舞台の上で受ける拍手。うずくまり涙を流す俺に、仲間は一発叩いてくれたおかげで、なんとか列に戻り、挨拶を済ませることができた。

 小さな地方の劇場でありながら、俺を含めて、仲間達の熱意は決して弱くはなかった。俺たちは普段小さなアマチュア演劇をしている。それが今回、大きな作品に挑戦しようという提案が上がり、都市のプロ劇団が取り組むような演目に挑戦す

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【短編】流れる川を感じながら

【短編】流れる川を感じながら

ずっと昔のことになるけど、友達を事故で亡くしたことがある。
その友達が死ぬことになった日の、その前日、たまたま放課後の屋上で、少しだけ私は彼と話した。
「アンナ、元気にやれよー」
それが私が聞いた最後の言葉だった。あの時の彼の心境は、今となっては、いや、翌日でさえもわかるはずはなかった。
彼は自分が死ぬという事を、どこかでわかっていたのだろうか。

私が死ぬ日、その前日は何をしているだろうか。

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【短編】こういう話がしたいんだ

【短編】こういう話がしたいんだ

「なんというか、わかるかな。
後輩たちと話してる。有望だと思って、それは別に本当の気持ちなんだけど。」

六年ぶりのメール画面、元カノのあいつを思い出すその気持ちは、酒のせいなのか何なのか、あまりわからなかった。
ただ、一所懸命に勉強しつつも、どこかぬるい世界の人と、なんというか当たり前の人々と、そういうのはないなと思った。つまり、話ができないということ。

天谷六太(あまやろくた)23歳。
上場

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【短編】怒りとペットボトル

【短編】怒りとペットボトル

急に手に震えが走った、そう思った時には遅かった。柔らかいペットボトルが、音も立てずにへしゃげて、ネクタイ下のシャツはコーヒーに濡れた。

「いやいや、やってしまったナァ」と彼は言う。同僚が、何をしてんだい、と笑いながらティッシュを持ってきてくれた。

ここ数日の疲れだろうか。最近はあまり眠れていない。
手洗い場の鏡の前、ネクタイの下で濡れたシャツはまるで心臓にくっ付いているようだった。
それは恐ろ

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【短編】書きたいことについて

【短編】書きたいことについて

1

「先生はどういうことを書きたいんですか」
大学教授時代、院まで面倒を見た教え子が東京から帰省してきた。
せっかくなのでお茶でもしましょう、という運びになって話をしていると、ふと、こう聞かれた。

「え、なんだって?」私は答える。
「いや、だから、先生は何を書きたいのかなって。小説、書きたいって仰ってましたよね。」

そういえばそうだったな。
昔のことだが、私はずっと小説を書いてみたかった。

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