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【短編】書きたいことについて

1

「先生はどういうことを書きたいんですか」
大学教授時代、院まで面倒を見た教え子が東京から帰省してきた。
せっかくなのでお茶でもしましょう、という運びになって話をしていると、ふと、こう聞かれた。

「え、なんだって?」私は答える。
「いや、だから、先生は何を書きたいのかなって。小説、書きたいって仰ってましたよね。」

そういえばそうだったな。
昔のことだが、私はずっと小説を書いてみたかった。
好きな小説家もいたし、その人について研究していた。こうやって文学に携わることは良いことだった。
世間の金銭的などろどろの話、殺伐としたモラルの話、倫理観の欠如した与太話、そういうのに足を突っ込むことなく、ただただ物語の海へと果てしない航海を続ける終わりなき日々。
そこでは、ひとり佇み、本を読み、生き残り続ける事が許されていた。

「何が書きたいんだろうナァ。」
自分でそう言っておきながら、私はそういう夢が心の中でまだ、消えていないことに気がついていた。すっかり過去のものだと思っていたのに。
「先生、コーヒーまだ残ってますよ。そろそろ出る時間です…」
「こいつは失敬。」
そんなことを考えていると、コーヒーを飲んでいたことも忘れていた。すっかり過去のものになったコーヒー。でも、アンティークのマグカップは、まだ温もりを留めていた。私はそれにも気がついていた。

2

中学3年生になったばかりの孫は可愛かった。
女の子だからか、背はあまり伸びなかったが可愛らしい顔に、歳に見合わず女性らしい細やかさがあって、チェーホフ的にいえば「かわいい!」といった感じだった。
しかしながら、聡明で、どこか鋭いところがあった。それは祖父の私からも意外に感じるのだった。そういうところは、無垢な「かわいい!」とは違うだろう。

「おじいちゃんは、昔、夢とかあったの?」

だから、こう聞かれた時には、さすがに参った!と思った。
ついさっきまで、あのコーヒーのマグカップの、残った温もりについて、考えていたところだったのだ。教え子と会った、その日の夜のことだ。
「そうだなぁ…えぇ。うーん、小説家だ。小説を書きたかった。」
そう言ってから、こう付け加えた。「今でも本当は書きたいんだよ。書くチャンスはあるからね。」
これでも大学教授を続けてきたのだ。人脈ならいくらでもある。
「じゃあ、今から書くの?」
「そうだなぁ。書くことを見つけなくちゃな、うんうん。」

そう、私には他のものはいくらでも揃っていたが、書くものが見当たらなかった。一番必要なものだった。

大学生時代は、そういうものに溢れていたと思う。今となってしまっては思い出せない、色褪せた残骸だった。それは小説という夢を、形にする事ができたかも知れない残骸なのだ。
更に言えば、大学院に入り、研究の道をひた走るようになってから、そういうネタは尽きることはなかった。文学を読み、解体していくと、そこに転がるネタはどれも面白いものばかりだ。「僕ならどうこのネタを書くだろう。」
よくそんなことを考えた。
でも、物事はうまくいかない。ある時、自分が面白いと思ったネタを、文学作品から取り出して書いてみた事があったが、どれも駄作であった。
既に誰かが書いた事。
それは書きたい事にはならなかった。

3

秋風がやってきて、夏を締めくくろうとする10月の事だった。一通の電報がわたしの元に届いた。それは、最悪の出来事だった。
とある作家が亡くなったのだという。その作家というのは、わたしが現役を退く少し前から、退いた後もしばらく編集長を務めた学術雑誌で連載をしていた若手作家だった。彼の現代小説は、古典の流れを汲む素晴らしいものだった。
これはすぐにでも、誰かが研究し始めるぞ、とそう思っていた。

「言いたいことを読め、聞きたいことを書け」
それが、その作家の口癖だった。
「どういう意味かね」と聞くと、こう答えてくれた。

「作家なんだから、読めなきゃいかん。でも、知りたいことだけ読んでいたらつまらなくなるんです。
自分が言いたいことを言葉にしてくれる文学を見つける事。そしてそれに耳を傾ける。それはよく聞くと自分の声に似ているんです。そしてそれを聞いていると、ふと、いろいろな事が頭に浮かんでは消えていく。その中で最後まで残るのは大抵の場合、文句だったり、新しい意見、発想だったりする。
それは、さっきまで聞いていた自分と似た声に対する反発なんです。
それは、拙い自分が紡げなかった言葉を、もし自分が話せていたならば、誰かから言われたこと、だったかもしれない。
それは、きっと、自分の聞きたかったことで、誰かが聞きたいことなんです。
私はそれを書くし、作家ならそれが仕事なのだとわかっているはずです。」

黒服に身を包みながら、タクシーに揺れる頭の中でこの会話が蘇る。
思えば、この話を聞いた時、彼の声は私の若い頃そっくりだった。そうかそうか、答えはそこにあったのに、私には私の声に耳を傾けるという事がなかったんだな、と思った。
多分、知らず知らずに、彼に自分の夢を預けていたのだ。しかし、彼は死んだ。私が言いたい事を書いてくれる作家が、ぽつんとひとり、居なくなったのだ。

通夜が終わり、家に帰ると、孫が遊びにきていた。そういえば、今夜はうちに来る約束だった。
「おかえりなさい」と出迎える妻。
「あの子ったら、ずっと勉強していて偉いわ」と付け加えた。

孫のそばに行ってみると、社会の勉強をしていた。その横には、おそらく先ほど終わったのだろう理科の課題が積まれていた。
「あ、おかえり。」と孫が言う。
「ただらいま、ずっと勉強していたのか、偉いな。」と私は言った。
「本当に大変。」

孫は突然私にこう聞いた。
「ねぇ、なんで大学を出た後も勉強しようと思ったの?」
「ん?そうだなぁ…。まだまだ読みたいものがあったからかな。知りたいこともあった。そういうことって役に立つんだよ。」
「役に立つ?」孫は首を傾げた。
「したい事が見つかった時に、勉強する力があること、それを支える理由がある事。つまり、努力を惜しみなくできる力は役に立つんだ。それはつまり、知りたいって気持ちさ。」
孫は少しだけこっちを心配そうにみていた。多分私は少し泣きそうになっていたのだ。
無理はない。
こういう事は口下手な私には言えない。こういう事を言葉にし続けた作家の死を、ついさっき見届けたばかりで、多分それが私を弱くさせていたのだ。

「勉強は、一生勉強だよ。」と私は言う。
「でもそれって、色んな、色んな勉強でしょう。今が一番大変かも。」と孫。彼女らしくないが、そういえば、まだ中学三年生なのだ。
「そうかもしれない。でもな…。」
少し言葉を詰まらせたが、私は続けた。
「いいか、こういうのは大した事じゃない。
東大に行くとか、テストで満点を取るとか。そういうことは、今からいくらでも目指せる事だ。
それに勉強しても、忘れる。
忘れたって良い。
なんていうか、これは訓練なのさ。君がこれから先、まだやりたいことは見つかってないかもしれないが、どんどん見つかってくる。ヨーロッパ行きたいと言っていたよな?そういうことが少しずつ広がっていく。そうして、やりたい事が、人生を通して見つかっていくんだ。
そういう時に、頑張れない奴はどうしようもない。でも、頑張れる奴は本気で頑張れる。その差ってのは、今こうやって勉強しているかどうかだ。つまり、頑張り方を知っているかどうか、そして、頑張ったことがあるかどうかだ。
いいかい、今日やって明日できることなんてのは、ちゃちゃっとやって仕舞えばいいんだ。
ちがう、努力ってのはね、もっと大きいことのためにやるもんなんだよ。それは、君が大人になってみた時、あるいはもっともっと先、君がこの世からさよならをする時に役に立つ。(そう、あの彼のように…)。
つまりね、その後でしかわからないんだ。その後でしか分からないこと、そこに向かってやりたい事をこれから君は見つけていく。この夜中の勉強はそのための準備、訓練なんだよ。だから、頑張りなさい。」

孫はじっと聞いていた。少し嬉しそうに聞いていた。孫にこんな話をしたのは初めてだったが、孫が知りたい事をちゃんと教えられたような満足感があった。そしてこう言った。

「そういうことを、書くんですか?」

「え、あぁ…。」少し言い淀む。その刹那、葛藤があった。
でも、この子はなんて聡明なんだろう…。いや、子供というのはよく覚えていて、なんと自在に繋げる事ができるのだろう。

「そうだね、あぁ。そういうことが書きたいんだよ。」

そうだ、君のために書いてみよう。私のためはその後でいいや。私の聞きたいことについては…。

机に向かう。
もしかしたら、私の聞きたいことを書く頃には、私は死んでしまっているかもしれない。私も歳だ。
しかし、書かねばなるまい。

私は原稿用紙を取り出して目の前に広げた。万年筆とインクの混じる音が響いていた。手元だけをランプが照らす。
最初の一行、タイトルが入る場所に、私はペンを滑らせた。

題名、『書きたいことについて』

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