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【短編】地平線

冬になると鈍色が辺りを覆うけれど、ひときわそれが顕著なのは空。ずっと暗いのに、陽が沈むのも早い。晴れや雨は好きだけど、曇りの日はあまり好きじゃなかった。母親の帝王切開で出来た古傷が痛んだり、僕も肺が痛くなったりするから。そんな雰囲気ってどうにもいたたまれない。
こういう時、このどんよりする痛みを誰かと分かち合えないものだろうか。僕の隣にいる彼女は、なんでもわかってくれるけど、それは何だか年長者が後輩に寄り添うような理解で、分かち合うとは少し違う。

そして僕はというと、ここが一番肝心な事なのだが、彼女のことを恐らく、何一つわかっていなかった。この日もそうだった。「陽が沈んだね」って言った僕に彼女は言った。
「沈んでないじゃない?まだ半分も朱い空!」

「むずかしい!」僕はこういう時、決まって心の中でこう唱える。どんな反論もこれをしてからじゃないと、うまく落ち着いて話せないことがあるからだ。

僕は言った。「いや、だからさ。この時間、夏ならまだしっかり明るいのさ。今日、君と家を出た時と同じくらいにね。それに比べたらさ。」
西の空を見てよ、と彼女は言った。僕の言ったこと、どこまで聞いていたんだろう。見ると西からはまだほんのり赤みが染み込んでいて、それが僕たちの方に流れ込んでいる。

「地平線があるでしょ」
彼女には地平線が見えていた。ずっとずっと先のもっと向こう側を想像することができて、太陽の位置とそこから伸びる赤の光をはっきりとした形を伴って感じることができた。その地平線と僕たちの間には、目の前の川の水面と、夜に響くせせらぎと、いくつかの木と、街灯と、過ぎ去る車と、無数の家屋があった。

「ここは日本だろ?」と返したけど、彼女はまだ言いたげな様子で、「いいから、聞いてよ」と僕の腕をつまんだ。
「地平線がある。ねぇ?」
僕はまた、「難しい!」と唱えてから言った。「わかった。地平線がある。」
「そうよ、地平線がある。その線よりも下に太陽が潜っているのよ。でも光はちゃんと超えている。だから、まだ沈んでないわ。」
「難しい!」僕はすっかり考え込んだ。線より下に潜っていてまだ沈んでいない。
「沈んでしまったらそれは本当に何も届かないじゃない。そうじゃないと、なんだかおかしいじゃない。」

彼女は少し欠伸をして、目を擦った。
「眠いの?」と聞くと、「そんな訳ないでしょ」と言った。
「陽も沈んだし帰ろうか。」
まだ沈みきってないわ。と、彼女が西を指さすと、まだ少しだけ赤かった。もうこちらには届いていないようだった。

僕は遠くをじっと見つめた。
それから西の空を見上げた。はっきりと赤が引き上げていくのがわかった。
「あのね、疲れたけど、眠い訳じゃないのよ。もう少しは勘が良くなってくれてもいいのにね、あなたって本当に。」

「難しい!」

彼女には想像して、形にして、それを感じることができた。隣に座り、同じものを見ていたのに、となりの彼女がずっとずっと空の上から僕を見下ろしているような気がした。
それを想像した途端、地平線が見えた。今、地平線の彼方には、その横長い光の帯のような線がようやく形を保っていた。そしてゆっくりとその両端から縮んでいった。

「夜の虫が鳴き始めたわね。」
「あ、うん。帰ろうか」と言って、手を差し出した。虫の声に、今度は気を取られた。まだ真冬ではないといえ、一体どんな虫がこの季節鳴くものだろうか。でも彼女は今はすごく小さく、小さくなっていた。それを思ったら、今度は隣で鳴いている虫の形をはっきりと想像できた。

何もかもが彼女に引っ張られていた。僕が目にするもの全て、耳にするもの全て、感じ取れる全てが彼女の大きさに引っ張られた。でも、もう僕は、ひとりで地平線も見れるし、虫の隣に座ることもできるようになっていた。彼女は今も地平線を見て、虫の隣に座っているように思えた。

ずっとずっと昔、何かに憧れていた時代。青春時代。憧れはまさに地平線のようだと僕は常々思っていた。誰にでも輝いて見え、壮大で、確かにそこにあるのに、絶対に到達できない境界線のことを考えると、それだけでワクワクした。そっちに向かって走っていないと不安になったし、違う方向を見れば真っ暗で怖かった。地平線の奥にはいつも太陽があって、僕を導いてくれた。そいつが沈む方向に進んでさえいれば絶対に僕は間違っていないと思えるのだ。憧れに向かっていく感覚、がむしゃらで他に何も考えていないころの事を、今はまだよく覚えている。
今はどうだろう。太陽よりも、オフィスの照明や、パソコンのブルーライトによりたくさんの時間、照らされている。あちこち光っていて、もはやどっちに太陽の光があるのかわからなくて立ち止まっている。眩しくて何も見えない感覚だ。歳をとってこうした感覚に追い詰められ、それが焦燥感になって、無難に生きる事を覚えてしまった。でも今は彼女がいる。今は、光の強い方向を向くんじゃなくて、彼女が立っている方向に導かれている。唯一眩しくない場所、それが彼女だった。彼女の影に入っていれば安心できた。彼女は相変わらず太陽が、地平線が見えているようだった。僕の目をやっつけた人工の光なんか、痒くないといった感じだ。彼女の向いている方向に、かつて追いかけた地平線、太陽がきっとあるのだ。

彼女は欠伸をした。
早く帰って休もうか、と言うと、ばかねぇという顔をしてー僕は「難しい!」ーこう続けた。だからあなたには地平線が見えないのよ。

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