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【自己受容】穴の開いた靴下は「負債」か、それとも「価値が在る」か、という話。

自己肯定感が低く、「自分には価値がない」と思いやすい人には、完璧主義者が多いと言われる。完璧主義を止めることが、自己肯定感を上げるには必要であると。
そして私は長年、自分の価値を感じられない自覚はあったが、自分は別に完璧主義ではないと思っていた。割とズボラだし、部屋の掃除もロクにしないし、面倒くさがりでもあるからだ。

だが先日、自己受容が分かったことで、気が付いた。
私は完璧主義者だったのだ。それも、かなりの強さの。
だが、その「完璧」のイメージがあまりに馴染みすぎていて、「完璧=当たり前」という認識だったために、自分が完璧主義者だという自覚ができていなかったのである。

つまりどういうことだったのかを書いてみる。


例えば穴の空いた靴下が目の前にあった時、皆様はその価値をどうイメージするだろうか。

私はずっと、穴の空いた靴下のような物体はマイナスの存在、つまり「負債」だと感じてきた。ただそこにあるだけで、身に着けている私の価値を損ない、家にあれば家の価値を損なう、そういうものだ。
無事な靴下には存在価値があるけれど、穴が空いた靴下には存在価値がない。この「価値がない」は、完全なゼロを通り越してマイナスだ。だから穴を繕うなり、捨てて新しい靴下を買うなりせねばならない。
それらの対策が終わった時に初めて、無事な靴下を履いている私=プラマイゼロになり、穴の空いた靴下が存在しない家=プラマイゼロになるのだと。

つまり「普通の無事な靴下」が基準で、その基準がプラマイゼロの位置なのである。
穴が空いた靴下は、ゼロから更に価値が落ちているので、マイナス。マイナスのものは存在してはならず、せめてプラマイゼロの状態にしなくてはいけない。

一事が万事その調子で、当然、自分自身に対してもそういう概念で生きてきた。つまり「一切の欠点や非のない私」を脳内の仮想モデルとして基準に置き、そこをプラマイゼロに定めた上で、実際には山ほど欠点のある自分の事を、ゼロを下回っている以上はマイナスの存在であると、この世界における負債だと認識していたのだ。
だから自分にはこの世界で生きる資格など本来はない、世の中が優しいから許してくれているだけだ――と、つい最近までずっとそう思ってきた。

逆上がりが出来ないという負債をゼロにするために、鉄棒の練習をする。
風邪を引いたという負債をゼロにするために、病院に行く。
就職先がないという負債をゼロにするために、就活をする。
歌が苦手だという負債をゼロにするために、ボイトレに通う。
結婚していないという負債をゼロにするために、結婚する。
仕事をしていないという負債をゼロにするために、家事や育児をこなす。

毒親育ちだという負債をゼロにするために、何としても解毒をせねばならず、自己受容が出来ていない・自己肯定感が低いという負債をゼロにするために、それらに対処せねばならない。
意識的にも無意識的にも、私はそんなイメージで生きてきた。物心ついた頃からつい先日まで、ずっとだ。

努力すればゼロに出来る負債はまだいいが、ゼロにしきれない負債はどうしても残る。過去の過ちは生きている限り積み上がるし、心身を壊せば動けなくなって「動けない」という負債が増える。そんなこんなで無限に膨れ上がっていく負債を、どうやって返済し、ゼロに近付けて生きていくか。そんな概念で生きていたし、それ以外の生き方は想像すらつかなかった。

だが、受容が出来ていて自己肯定感が低くない人々の「普通の価値観」は恐らくそうなってはいない――ということに気が付いたのが、つい先日の事である。

自分に価値があると疑わない人々の世界観では、この世界に負債、つまり「マイナスの価値」のものは基本的に存在しない。
穴の空いた靴下には「穴の開いた靴下分の価値」が「在る」。ゼロではなく、ましてマイナスでもなく、絶対値としては小さくとも、紛れもなくプラスの値なのだ。

より価値の高い靴下を求めた結果として、無事な靴下や、ゴージャスな靴下を入手する判断が悪いという話ではないが、「穴が空いた靴下は、この世界に存在してはいけない負債だ」などということはない。「穴の空いた靴下を履いた自分」には、単に「自分+穴が空いた靴下」の価値がある。「靴下の穴の分、本来の自分よりも価値が損なわれている」訳ではないのだ。

そしてその価値観における「価値がない、ゼロの状態」とは、靴下が一つも存在しないことを指す。
穴の空いた靴下だって、履いていないより履いていた方が暖かいし、たとえ使い道がなかったとしても、穴の空いた靴下がそこに在る以上、穴の空いた靴下分の価値もまた「在る」。自然に、当然に、事実として、微々たる量ではあるが、確実にプラスとして世界に存在するのだ。
そこに靴下があるならば、その靴下がどんな状態だったとしても、その靴下の分の価値が揺ぎ無く「在る」、そういう考え方なのである。

人間についても勿論同様だ。
自己受容が出来ている人の世界観では、自分が風邪を引いていても、仕事をしていなくても、性格が色々とアレでも、「風邪を引いた、無職で性格がアレな自分の価値」が「在る」。それはマイナスではなく、プラマイゼロでもなく、プラスである。
ここに自分がいる、つまり「無人ではないのだからプラス」なのだ。

上手く伝わる自信がないが、とにかくこの概念を理解し、自分にインストールできた瞬間に、私は「受容とは何かが分かった」と思えた。
穴が空いた靴下を負債とみなし、「穴を塞がなければ、あるいは捨てなければ周囲に害を与える」と否定する必要はない。単純に穴の空いた靴下には「穴の空いた靴下分の価値」を、ひいては自分に対しても「欠点のある私の分の価値」を、プラスの存在として認めてしまっていいのだと。

他人と自分を比較しないように心がけているのに自己肯定感が得られない、という人は、私のように無意識に「一切の欠点がない自分」という仮想モデルをプラマイゼロの基準点に置いてしまっていて、その基準に達しない自分をマイナスの存在だと、世界にとっての負債だと見なしてしまっているのではないだろうか。
今日の私だから言えることだが、それは実は十分すぎるほどに「完璧主義」だ。「欠点や非のない自分」は当然ではなく、まして最低ラインでもない。完璧な人間、パーフェクトヒューマンなのである。

高望みをしているつもりはない、人としての最低限を満たしていない自分が許せないだけだ、と過去の私なら言うだろう。
が、そこでイメージしている「人としての最低限を満たした自分」は、「欠点のない自分の仮想モデル」である。自分が許容できる欠点だけを持ち、許容できない欠点を持っていない自分を最低限と呼ぶのは、極端に言えば「貧乳でツンデレでたまにドジっ子な美少女メイド」を設定しておいて「最低限このぐらいじゃないとね」と言っているようなものである。
普通の人が「理想」と呼ぶレベルのその仮想モデルを、最低限=プラマイゼロだとみなし、そことの比較による減点方式で自分自身を見て、マイナスの大きさに絶望してしまう。自己肯定感が低く、自分の価値がないことに苦しんでいた私の思考は、恐らくそういう仕組みだった。

そして、その価値観の根底には、穴の空いた靴下をマイナスの存在、負債だとする概念――物事の価値を絶対値として見られず、無意識的に相対値で見て、瑕疵のない完璧な状態と比較した上で、その差を不足だと、問題だとする意識があったのである。

だが、穴の空いた靴下には、「穴の空いた靴下分の価値」が「在る」。
欠点のある私には、「欠点のある私分の価値」が「在る」。

勿論、穴を塞ぐ努力をすれば靴下の価値は上がり、欠点を無くす努力をすれば私の価値は上がるだろう。だが、穴があるままでも靴下の価値はプラスの値として存在し、欠点があるままでも私の価値はプラスとして存在する。無理をして価値を上げなくても、マイナスではない。「直さなければいけない」「直せないならば、そこに在ってはいけない」と思う必要はないのだ。
無価値=ゼロというのは、そこに靴下が一つもないことであり、そこに誰もいないという事なのである。
マイナスの価値=負債という概念は、自己認識において存在すべきではない。その概念こそが負債であり、自己肯定感をマイナスにしてしまう。私は幼少期にインプットされたその価値観でアラフォーまで生きてきてしまったが、この先の未来において、その価値観を存続させねばならない道理はないのだ。

ちょっとくどくど書きすぎて、「穴の空いた靴下」がゲシュタルト崩壊してきたが、私の自己受容のステップを一気に「出来た!」まで押し上げてくれたのは、こんな感じの概念だ。

少しでも誰かの気が楽になると良いなぁ、と思いつつ、でも私は別に、リアルに穴が空いた靴下を捨てるなと言っている訳ではなくて、ミニマリストに喧嘩を売っているつもりも全くなくて、本当に靴下に穴が空いた時は普通に捨てて、新しいのを買った方が良いと思います。念のため。


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