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「自己受容」とは何かが分かった、と思う!という話。

自己肯定感を上げるとか、生きづらさをなくすとか、自分軸で生きるとか。
そういうメンタル系の話になった時、必ずといって良いほど出てくるのが「自己受容」――ありのままの自分を認める、と言われる概念だと思う。

基本的なスタンスの話なので必ず出てくるし、それが出来ることがスタートでありゴールでもある、みたいな話で、なんとなく「ふーん」とは思うし分かることは分かるけれど、でもつまりどういうことよ???という点で、私にはずっとピンと来ていなかった概念でもある。

理解は出来る、必要性も分かる、するようにしてる、つもり。でも「つまり何か?」はよく分かってないし、感覚としては腑に落ちない。だからよく考えると、やっぱり出来てない気もする。
そういう感じの距離感だった「自己受容」、なのだが。

分かった。出来た。
多分これだ!!!

と、そう思えたのが数日前の話である。
きっかけはノゾムさんのこちらの記事だ。
※前回、師匠呼びをしたら丁重にお断りされてしまったので、仰ぐのは心の中でだけにしておきます(笑)。

多分これだ。きっと合ってる。つまり出来た、と思う!
という感触を飲み込んで咀嚼するのに数日かかって、自分の中にあった不安、焦燥感のようなものがどう探っても再燃しない……というか、再燃する前に解決を付けられる、ということをある程度確かめられたので、この記事を書いている。

この「出来た」は多分、自転車に乗れるようになった、みたいな話である。一度覚えれば一生忘れない、と言われる感じ。明日でも来月でも3年後でも、この概念が私の中に作られたからには、私はこの先何が起こっても、これを失わずに済む、と思う。
勿論、まだおぼつかない。覚えたての自転車でフラつきながら走り始めた感じなので、この先もちょいちょい転ぶだろう。

だが、私にはもう二度と、心底死にたいと願い、泣きながら眠る夜は来なくなるはずだ。泣きながら眠る日はあるかもしれないけれど、多分私はその時、泣いている私自身を許せる。

自分に生きる価値などないと、酸素を消費する資格もないと、自分を責める日も(毒親育ちだと気付いてからはなくなっていたけれど、それでも)この先一生来ないだろう、と確信できる。
何かをやらかして、罪悪感や自責の念を抱くことはあるだろう。でも、失敗の内容そのものに意識を向け、あるいは迷惑をかけた他者を思って、具体的な償いやリカバリーの方法、再発防止策を考えるだけで済むはずだ。
自分が今生きていること自体を罪や罰だと感じたり、こんな自分には生きる権利などない、と感じることはなくなるだろう。私は自分が生きていることを、これからも生き続けることを許せる。

逆に言えば、「自己受容が分かった」効果はただそれだけだ。
思考回路が物凄く劇的に変わったという話ではないし、私の性格や人格も変わっていない。先週までの私との違いは全くない、とも言える。

でも、多分私はもう、大丈夫だと思えた。思えている。
これはささやかだけれど、重大な感覚だ。

自分がどうあるべきか。自分は何を得なければならないのか。自分がこの社会で生きていくために、自分自身の望む人生を生きるために必要なものを、私は果たして見つけられるか、身に着けられるか――という種類の悩みや不安は、消えた。消せた。

自分が息子にとって毒親でない、真っ当な親になるためにどうすれば良いか。私の子として生まれてしまった息子をどう育てれば、息子が生きづらさを持たない人間として成長することが出来るか。息子のどの短所を指摘し、どの長所を誉めるべきか。何への口出しを控えるべきなのか。どのポイントを間違えると取り返しがつかない傷になるのか――という種類の悩みや不安も、消えた。消せた。

自己受容。ありのままの自分を認めて、肯定的に受け入れる――何度も読んだことがあるはずのフレーズ、頭では理解していたはずの概念、でもそれを体感として理解できた。そう思う。

乱暴にまとめると、多分こういう表現になる。
――私は別に、変わらなくても良かった。変わっても構わないけれど、「私にはこれが足りない、これは悪い部分だ」「だから直す必要がある、変わらなくてはいけない」と思う必要はどこにもない。何故なら、今この状態の私は既に、何も悪くない存在だからだ、と。

例えば、私は自己肯定感が低い。
それを何とかして上げなくてはいけないと思ってきた。自分の悪い所を認め、良い所を数え上げ、トータルで世間一般の標準と比較して、そう極端に劣っているというほどでもないだろう、だからまぁそんなに悪くない。そう思うようにしてきた。
だが、自己受容はこれとは違う。「自己肯定感が低い私だって良い、別に何も悪くない。だからこのままでいい」という思考だ。この思考により、逆説的に自己肯定感は上がっているわけだけれど、目的はそこではなくて、「自己肯定感が低い私なんて駄目だ」と、意識的あるいは無意識的に考えることを止める、という話だ。

ある種の開き直りでもある。だが、虚勢を張るのともまた違う。
今現在の私に、「私が」100点満点をつけるということだ。
私は長年、自分を満点どころか、下手をすると存在さえ容認することが出来なかった。誰が何と言おうと自分はダメ人間だと思ってきたし、自分のダメな所を隠したり直したりする努力を出来る所にだけ、辛うじて多少の価値が生じる――と思ってきた。

でも違うのだ。
努力して何かを得ても、それはそれで良い。何かを成しても構わない。だが何も成さなくても、ただ食事を排泄物に変え、酸素を二酸化炭素に変え、家事も育児も一切やらず、ただひたすらに煙草を吸いながらゲームに明け暮れる引きこもりニート生活を送っていたとしても、私の価値は私という存在と共にずっとそこに在って、一切損なわれることはない。そう「私が」心底思えるようになること――というのが恐らく、「自己受容」だ。

つまり。
毒親育ち故に愛着障害を持っていて、他人の顔色を伺う癖があり、自己主張が苦手で感情表現も下手くそで、対人恐怖症の気もあってリアルの女性を前にすると委縮してしまう。人の声に敏感なせいでTVも動画も見るのが苦手で、化粧にもファッションにも興味を持てず、失感情症やらアダルトチルドレンやら面倒臭い特徴を持っていて、大志も抱けなければ自己実現にも興味がないし、その内離婚したい一人暮らししたいなどと言いながら職探しすらしていない。
そういう私でも、別に何も変わる必要もない。変えなければいけない、なんて事は何もない。したいことがあるならすれば良いし、変えたいことがあるなら変えて良いけれど、このまま漫然と何一つ変わらず一生を終えても、私の価値は初めからずっと揺るがずそこに在ったし、この先も在り続ける――と、そういう概念だと思う。

そう思えると、生きづらさに繋がる不安は恐らく全てが消失する。

例えば私は息子の学費を稼ぐために、遅くとも数年後からはパート先を探して働く必要がある。私にとって怖いのは「働く」よりむしろ「パート先を探す」方だ。私は学歴は一応あるはずなのだが、就活に恐ろしく弱い。学生時代の就活と同じように、また100社落ちるかもしれない。
当時の挫折感を繰り返し味わうのが嫌だ。だから職探しなどしたくない。でも働くためにはしなければいけない。そう思うとそれだけで気が滅入る。

――が、自己受容が出来れば、これは問題でなくなる。
そもそも働こうが働かなかろうが、私の価値は変わらずそこに「在る」。まぁ働いて金を稼げるようになった方が家計としては望ましいので、働くのも良いかな、と思って働く場所を探してみようとは思うけれど。
で、実際パート先を探し始めても、「就活で100社落ちる私のままであっても良い」と、心からそう思えていれば、同じ100社落ちたところで、私は学生時代のように線路に飛び込みたくはならないだろう。「まぁ、私は就活に弱いからねぇ」とただそれだけの話である。私の価値は変わらず「在る」ままだ。何百社落ちようとも、私が反省して改善できなければ生きる価値がない、という話にはならない。

別に仕事が見つからずに一円も稼げない私であっても、価値は変わらずそこに「在る」のだから、働きたければ次を探せば良いし、受かりたければ履歴書の書き方を工夫しても良い。でも、もうやりたくなければ面接など受けに行かなくても良い。「パート先を探す」が嫌なら金を稼ぐ別の手段を考えても良いし、もっと言えば私が息子の学費を工面できなくても、だからといって私の価値は損なわれない。息子が進学出来れば良いのだから、息子自身が奨学金を借りてもいい。私の親に頭を下げて出してもらっても、私の価値は変わらない。どんな手段でも構わない。
――と、そういう思考になる。「就活をしなければ、そして何とかして受からなければ、私には生きる価値がない」と考えて自分を追い詰める必要はないのだ。めちゃくちゃ思考や行動の幅が広がっている。

育児に関する不安も同様だ。
私が毒親育ちだという事実は変わらず、幼児期の息子に暴力で言う事を聞かせた事実も変わらず、今の育児はマシになってきているはずではあるが自信などない。育児を楽しんでいるかと言われると疑問だし、息子を可愛いと感じられる日もあれば、うるさく煩わしいとしか感じられない日もある。
――が、そんな私でも何一つ変わる必要はない。そして同時に、息子も今のまま、何一つ変わる必要はない。変わっても別に良いけれど、変わらなければいけないことなど、全くない。
息子の短所を直す必要などなく、長所を伸ばす必要もない。勉強や運動が出来るようにする必要もない。息子は今のままで完璧な価値がある人間だし、私も今のままで、完璧に価値がある。どんな長所や短所があっても、私も息子も、価値が損なわれることはない。

例えば息子に、今日の私の都合のために、早くお風呂に入って欲しいと言う必要はある。私が叶えてやれない、叶えてやりたくない我儘は息子に我慢しろと言う必要もある。教えた方が親切なことはあるし、助言した方が息子にとって便利なこともあるだろう。
だが、テストが何点でも、我儘な性格のままでも、他に母や夫や私の悪い部分が似ていても、要領が悪く見えても、どんなマナーを覚えても覚えなくても、息子の価値は変わらずそこに「在る」。私が教えたいことを教えたり、助言したいことを助言するのは悪くないが、息子の性格や属性や特徴を、何か別のものに変えなければならない必要性は、どこにもない。
毒親育ちの私に育てられたからといって、息子という存在の価値は変わらずそこに在り、損なわれることはないのだ――と、こういう感じになる。

自然に出来ている人、完璧にではなくても何となくそれをしながら生きることが出来ている人には、きっと私のこの記事は「何言ってんだ?そんな当然のことを」としか思われないだろう。
一方で、生きづらさを抱えて自己否定の真っただ中にいる人には「そう思える人は良いよね」となって終わりだろうし、自己受容を出来つつあるけれど腑に落ちていない状態の人は「そんなのあちこちで読んだし分かってる、でも常にそう思うって無理じゃない?」という感じになるはずだ。

でも多分、この自己受容は、生きやすくなるために恐ろしく有用なスキルだ。というか、これが出来ないから私はずっと苦しかったし、出来なければこの先もずっと苦しかっただろう。

それでもこの先の私はきっと大丈夫だ、と思う。思える。
この「大丈夫だと思える」こと、安心感を手に入れることで、今まで自分がどれだけ不安だったのかが分かった。この不安を持って生きている状態は、例えるなら、15kgから20kgの荷物を背中に背負っている状態だったと思う。15kgの荷物を背負って、そうでない人たちに混ざってマラソン大会に出場しているように生きているのだから、自分が真っ先に脱落しても当然だし、ちょっとよそ見をする余裕なんて無くても当然だし、他の皆が「きついねこれーw」と言い始めた頃には生きるか死ぬかの状態になってしまう。

でもこの「荷物の下ろし方」を学べたからには、私はこの先、また気付かずに荷物を背負った時にも、何度でも下ろせるはずだ。
「自己受容」を伝えようとしている色んな立場の人は、きっとこの感覚を伝えるために努力している。確かにこれは伝えたくなる概念だと思う。
ちょっと長くなりすぎるし言語化がまだ追い付いていないけれど、またこの話は何度か書きたい。

とにかく、ここまで勢いで書いた長文を読んで下さった方には少々申し訳ないが、このnoteは殆ど私信のようなものだ。
ノゾムさん!!自己受容、多分出来たと思うんですけどどうですか、これで合ってますか!?――という。
もしかしたら多少違うのかもしれないけれど、大筋合っているはずだと思うし、間違っていたとしても私の価値は別に損なわれないので、勢いのままドカンと公開してしまおうと思います(笑)。


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