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渾身の一手は「そのままの自分を受け入れる」こと

おそらくは、ここに迷い込み、足踏みする人は少なく無いのだと思っています。

生きづらさに気が付いて、それを手放そうと願い、
自分と向き合って、何度か自分の中に「気づき」とも思える感覚があり、

なのにまた、「生きづらさ」を感じてしまう、

そんなループに入り込む人は沢山いる様に思ってます。


その人は「生きづらさ」に気づいた賢い人です。
なぜなら、気づくことなく生涯を終える人は沢山いるからです。

その人は「自分と向き合う」勇敢な人です。
なぜなら気が付いて尚、目を逸らす人は大勢いるからです。

その人は「決断」しようとする懸命な人です。
なぜなら、慣れ親しんだ世界は例えそれがネガティブな世界でも安住することを甘く誘い、その誘いに抗えない人はいっぱいいるのです。

賢く、勇敢な人が懸命な姿勢になって尚、無限ループにはまり込むのは、どうしてなのでしょうか。


賢いが為に気づき、
勇敢であるが為に取り組み、
一生懸命であるが為に、

自分を「変えよう」としてしまっている様に思います。

思考では、
「そのままの自分を受け入れる」事など、その人は知っています。

「理解」しています。

しかし、「生きづらさ」を手放すことを心底願いながら、真剣だからこそ、いつの間にか「変わろう」としている様に思います。

「生きづらさ」を手放すことを願うならば、「そのままの自分を受け入れ」た後に、
自然と「変わる」のだと思っています。

対人恐怖に苦しんでいるならば、
人が怖い自分を、
「それでいい」と思えた時に、自然と怖く無くなるのだと思います。

怒りを抑えられないことに苦しんでいるなら、
激しく怒ってしまう自分を、
「それでいい」と思えた時に、荒れ狂う怒りが、自然と穏やかさを得ると思うのです。


「生きづらさ」の原因の大半は、幼少期に感情を否定され、
自分の感情は心の奥底に閉じ込めて、親が望む感情を、演じて見せ続けたことにあります。

この子は自分の感情を「悪いもの」として捉えることが当たり前になってしまいます。

人は感情の生き物です。

自分の自然な感情を「悪いもの」と捉えるこの子は、

つまり、自分の存在自体を否定することになるのです。

「生きづらさ」を抱えるか、軽やかな人生を歩むのか、を分けるものは、
自分に対する「安心感」だと考えます。

何か失敗しても、自分に欠点があっても、そのことが自分の存在価値とは何の関係もないと感じられる「安心感」が有るか無いかです。

「生きづらさ」を手放すことは、
自分の存在に対する絶対的な「安心感」を得ることとイコールだと思うんです。


だから、
「生きづらさ」を手放そうと願い、
自分と向き合い始めたとき、

賢く、勇敢で、一生懸命であるが故に、いつの間にか、自分を「変えよう」とすることは、

「そのままの自分を受け入れる」ことから離れ、
このままでは駄目だ、と自分を否定する方向を向いている、と言えます。

「生きづらさ」は、
自分を否定する言われ無き思い込み、です。

その「生きづらさ」を手放そうとするとき、自分と向き合い、幼少期に負った心の傷を正面から見据える意味は、

本来、価値有る自分であるのに、その望まない出来事によって、言われ無き無価値な思い込みを持ってしまったことを、腑に落とす為です。

腑に落ちたなら、本当は自分は価値有る存在だった、ということを「思い出す」ことが出来、
それが、自分に対する揺るぎない「安心感」と言えます。


自分の特徴、個性、長所、短所、性格を「変えよう」とすることは、

幼い頃に、
自分の中から自然に湧き上がる感情を閉じ込め、
親が求める感情を表現をして見せていたことと、
同じことなのです。

「変えよう」としたとき、
「安心感」から遠くなります。

そのままの自分を受け入れることは、
自分の存在を肯定することです。
肯定することが、自分に対する「安心感」です。

幼い頃、否定的に扱われ続けた自分を、

大人になった自分が、

そのまま受け入れることが出来たなら、

「安心感」は得られ、

思い込みを取り払った、価値有る自分になります。

「変えよう」ではなく、

自然に「変わる」のです。


オセロゲームは渾身の一手で、

黒から白へひっくり返ります。


渾身の一手は、

そのままの自分を受け入れること、

だと思っています。




読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。



NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム

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