櫻井さんNETFLIX2

人事のプロが肝を冷やす? NETFLIXの人事戦略(櫻井祐子)

翻訳者自らが語る! おすすめ翻訳書の魅力 第3回
NETFLIXの最強人事戦略 自由と責任の文化を築く
著:パティ・マッコード 訳:櫻井祐子
光文社、2018年8月17日発売

「有給無制限」「必要のない人材は即解雇」……NETFLIXの型破りな人事戦略

光文社の編集者小都一郎さんから“POWERFUL”という、人目を引くタイトルの本のお話を頂いたのは、去年の暮れのこと。著者は世界最大手の映像配信会社NETFLIXの元最高人事責任者、パティ・マッコード氏だという。NETFLIXの人事といえば、有給休暇は無制限、業界最高水準の給与を払う、必要でなくなった人材は即解雇する、といった過激な方針が有名だ。またマッコード氏は、数年前からシリコンバレーでバイブルのように信奉されている「カルチャーデック」(同社の企業文化や人材に関する考え方をまとめたスライド資料)の共同執筆者としても知られる。小都さんは悩める日本企業に対する問題提起の意味で本書を選ばれたと伺い、とても興味深く感じた。

さっそく短めの原稿に目を通してみると、系統立った企業文化論というよりは自分語りが多く、回顧録のような印象を受けた。それに“I hate” “kill them” “run you over”といった物騒な表現がやたらと目につく。理路整然としたカルチャーデックとはちがう、かなり型破りな本のようだ。いったいどんな本になるだろうと、仕上がりのイメージがつかめないまま、それでもワクワクしながら翻訳にとりかかった。

人事をハックする

訳し始めてまず感じたのが、著者と同社のCEOリード・ヘイスティングスをはじめとする経営陣と社員の熱量の高さだ。

著者は以前、ヘイスティングスが最初に起業したピュア・ソフトウェアという会社で人事を担当していた。その後ヘイスティングスはピュアを売却して大学に戻り、著者はフリーのコンサルタントに転身する。数年経ったある日の午前2時、ヘイスティングスから著者に電話がかかってくる。新しい会社をつくるから参画してほしいというのだ。

「僕たちが本当に働きたいと思える会社をつくれたらいいと思わないか?」

人事専門家にとって、これ以上の口説き文句があるだろうか? スティーブ・ジョブズがペプシコーラからジョン・スカリーを引き抜いたときの名言、「このまま砂糖水を売って人生を終わりたいのか?」に勝るとも劣らない殺し文句に、思わずシビれてしまった。この言葉を胸に、著者は最高の組織をつくろうと発奮する。ヘイスティングスはかなりの人たらしであるようだ。

リード・ヘイスティングスは全米で尊敬される名経営者だが、自叙伝や解説本が出ていないこともあって、とくに海外では謎に包まれた存在だ。そんな彼の実像に触れられるのもおもしろかった。規制の枠にとらわれない壮大で斬新なビジョンと、それをすばやく実行に移す判断力と行動力の持ち主。それを支えるのは、視聴者を喜ばせたいという、ひたむきな情熱だ。

NETFLIXは「視聴者が喜ぶから」という理由だけで、当初のDVD郵送レンタル事業からストリーミング配信へ、そしてオリジナル作品の制作へと、成功していたビジネスモデルをかなぐり捨て、自らを破壊するような新しいビジネスモデルに次々と乗り換えていく。普通ではあり得ないほどの業態変化が、いったいなぜ可能なのか?その秘訣は、まさに同社の人事戦略にあった。

ヘイスティングスが前述のピュア・ソフトウェアを売却したのは、成長に伴い組織が官僚主義化し、環境変化に対応できなくなったためであるようだ。彼はおそらくこの手痛い経験を教訓に、「急激な変化にただついていくだけでなく、それを成長の起爆剤にできる企業文化とは何か」と考えたはずだ。そこでNETFLIXはどうしたか? 著者の陣頭指揮のもと、シリコンバレー流の実験と検証のすばやいサイクルをくり返し、人事をハックしていったのだ。

このとりくみをありのままに記録したのが、本書である。最初から秩序立った戦略があったのではない。最高の人材が最大限の能力を発揮できる環境を求めて、人事に関するあらゆる前提を疑うところから始め、がむしゃらな試行錯誤をくり返した。そのようにして有機的にできあがったのが、NETFLIXの人事戦略であり、企業文化なのだ。

同社の戦略は有機的だからこそ、模倣が難しい。NETFLIX文化はすべてをトータルで見たときにこそ意味があり、真価を発揮する。あらゆる人事制度の撤廃、状況に応じた柔軟なチームの組み替え、自由と責任、正直であること、活発な議論等々、実験を通してとことん考え抜かれた一つひとつの方針が、互いを支え合っている。

たとえばひとつまちがえばブラック企業ともとられかねない、「いらなくなった人材は即解雇」という方針は、シリコンバレーというエコシステムとの共存を前提に成り立っている。だからこそ著者は「他社の面接を受けなさい」「解雇するのは能力がないからではなく、業務に合わなくなっただけ」とくり返す。エコシステム全体で考えれば、決して人材の使い捨てではないのである。そしてNETFLIXはカルチャーデックを惜しげもなく公開し、良質の人材を絶えず供給して、エコシステムを率先して育成している。

このような理由から、旧来の人事方式のもとで運営される企業が、根本的な発想の転換なしに、付け焼き刃的にこれらの戦略をとり入れたとしても、効果は限定的だろう。「こうした方針はどんな企業でもとり入れられる」と著者はいうが、アメリカの企業に「うちにはそんなことはできない」と反発される様子が随所に出てくる。日本の人事専門家は、はたして本書をどのように受け止めるだろうか……。

翻訳作業を進めるうちに、このような全体像を自分なりにとらえることができた。そうなればあとは、原書の本来の勢いやスピード感、高揚感を損なわないようにするだけだ。本書のもうひとつの特徴が、登場人物の際立つ個性と臨場感である。印象的なシーンが、まるで映画を見ているかのように鮮やかに描き出される。考えてみれば、NETFLIXは映画やドラマの会社だ。私も最後には、歯に衣着せぬパティ姐さんが乗り移ったかのように訳していた。編集段階で、「もう少し穏当な表現に変えた方がよいのでは」という校正の方からの(もっともな)指摘もあったが、小都さんがおおむねOKを出して下さったのはありがたかった。

スタートアップ界を牽引するインフルエンサーたちがこぞって反応

本書はカルチャーデックの知名度もあって刊行当初から話題となり、アマゾンでも売り切れをくり返し、たちまち増刷がかかった(現在3刷)。「おもしろい」「小説を読むよう」「ワクワクする」といった反応が多く、うれしかった。

私が何より舌を巻いたのが、日本のスタートアップ界や若手エグゼクティブのみなさんの反応だ。インフルエンサーが感想や気づきを次々とSNSにアップし、それが拡散されていく様子を垣間見ることができた。彼らは新しい事業や組織を日々構築しているからこそ、本書の内容を何の気負いもなく、自分のこととして受け入れ、活かそうとしている。彼らの学習能力、熱量、アウトプット能力、情報発信・共有力の高さには驚かされた――まさにNETFLIXが求めるような人材だ。そうした人材にピンポイントで訴求するこの戦略の力をあらためて実感した。

いち早く好意的な書評を上げて下さったのが、ビジネスブックマラソン代表の土井英司氏である。

土井氏はさすがの慧眼で、この本のその後の命運を見事にいい当てて下さった。

「思うに、本書を人事のプロには絶対評価させてはいけない。なぜなら、本書で紹介されている内容は、基本的には彼らを不要にするものだからです」

まさにそうなのだ。日本企業に一石を投じたいという当初の意図とは裏腹に、日本のいわゆる人事のプロと呼ばれる方たちからは、今のところ目立った反論はおろか、感想さえ届いていない。スタートアップ界の熱い反応とはあまりにも対照的である。本書が日本の既存企業に評価されるようになるのはいつだろうか、そしてそのとき日本経済はどうなっているだろう――。反響を含め、じつに型破りで示唆に富む一冊だった。

執筆者プロフィール:櫻井祐子 Yuko Sakurai
京都大学経済学部卒。大手都市銀行在籍中にオックスフォード大学大学院で経営学修士号を取得。東京在住、1女1男の親。

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