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某新聞奨学生時代の思い出

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昔々、院長が苦学生だった頃のお話です。当時、一定の奨学金をもらって新聞配達をしながら学校へ通える新聞奨学制度を利用し、鍼灸専門学校に通っていました。
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新聞奨学生時代の思い出(9)

新聞奨学生時代の思い出(9)


鍼灸学校は夜間部へ入学した。夜間部は社会人が多いため、比較的真面目でやる気のある学生が多いと思ったからだ。実際、入学してみると、昼間部は授業中に泣き叫ぶ赤子を抱いている学生や、新聞を読んでいる学生、ペチャクチャとお喋りが止まぬ高卒間もない学生などがチラホラいて、校内の定期テストで赤点を取る者も少なくなかった。夜間部の学生は30~50代の中年がほとんどで、60代の女性が1人と10代の男性が2人いた

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新聞奨学生時代の思い出(8)

新聞奨学生時代の思い出(8)

貧しい苦学生に見えたのか、集金中に突然食べ物を渡されることがよくあった。

特に、古い戸建てが密集する地域では、80歳前後のおばあさんが食べ物を差し出す確率が高く、また同時に、それは賞味期限切れの食べ物である確率も高かった。

大きな一軒家に独りで住んでいるおばあさんなどは、話し相手が欲しいのか、集金時に私を引き留めて長話に付き合わせようとすることも多く、月内80%の回収率を達成するためには、如何

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新聞奨学生時代の思い出(7)

新聞奨学生時代の思い出(7)

新聞奨学生になって1年くらい経った頃、集金業務をすることになった。そうは言っても学業との兼ね合いで、100%の回収には無理があったから、月内に80%まで回収してくれればいいよ、と店長が言ってくれた。私が月内に回収できなかった分は、社員がやってくれることになった。集金手当は毎月3万円だった。

集金業務は毎月25日から始まる。給与支給日が25日の会社が多いことに合わせているらしかった。新聞代金の支払

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新聞奨学生時代の思い出(6)

新聞奨学生時代の思い出(6)

私が所属していた新聞販売店には、様々な事情を抱えた人が多く集まっていた。

刑務所から出所したばかりの男、怪しいモノの運び屋をやっていた男、田舎で何かトラブルを起こして逃げてきた男、ギャンブル依存症で借金取りから逃げてきた男、多重債務の取り立てから逃れるため、エアガンとCB400を友人と物々交換し、バイクで1000km以上離れた田舎から逃げてきた偽名男、某宗教を脱会し、追っ手から逃げてきた男、古い

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新聞奨学生時代の思い出(5)

新聞奨学生時代の思い出(5)

新聞販売店はその名の通り、基本的には新聞販売による収入がメインとなっていたが、実際には新聞に挟む折込チラシの売り上げが、大きな収入源となっていたようだった。記憶は定かではないが、1枚あたり3円くらいだったと思う。

販売店での総配達部数は5000部くらいだったが、3000部前後のチラシを販売店に持ち込むクライアントが多く、チラシの内容によって高級住宅街や新興住宅街、旧市街地などへと、分けて配達する

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新聞奨学生時代の思い出(4)

新聞奨学生時代の思い出(4)

新聞屋にとって、1年で最も団結力が高まるのは、元旦までの1週間だった。元旦の新聞は1年の始まりということもあり、毎年、新聞社の威信をかけた豪華版となるのが通例だった。それゆえ、所長や店長からは、不吉であるから元旦だけは不着、誤配をしてくれるなと、耳が痛くなるほど聞かされていた。

通常、新聞は月曜日が最も薄く、週末に近づくほど厚くなる。それでも、紙面のページ数は30ページほど、チラシは多くても20

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新聞奨学生時代の思い出(3)

新聞奨学生時代の思い出(3)

不着、誤配をほとんどしない優秀な配達員は、しばらく経つと、どの区域にも属さない「代配者」として、配達を任されるようになる。つまり、ある区域の担当者が休んだり、欠員が出るたび、その区域の配達を代わりに請け負う、フリーランスのような配達員に昇格する。

「代配者」にもランクがあり、数区域のみの代配から、最終的には全区域代配可能なレベルへと、順次アップして行く仕組みだった。

その当時、私が所属していた

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新聞奨学生時代の思い出(2)

新聞奨学生時代の思い出(2)

通常、朝刊の配達は深夜1時30分~朝6時まで、夕刊の配達は14~16時までだった。他には月に2回くらい、朝6~9時までの電話当番があった。

電話当番は、朝刊配達完了後から事務員が出勤してくる朝9時まで、新聞販売店内に設置された電話の前に、ボーっと座っているだけで良かった。しかし、運が悪い日は、不着(新聞が入っていない)や、誤配(違う新聞が入っていた)の電話がバンバンかかって来るため、3時間の電話

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新聞奨学生時代の思い出(1)

新聞奨学生時代の思い出(1)

もう20年ほど前の話だ。

その頃は鍼灸学校の学費を稼ぐため、新聞奨学生をしていた。鍼灸学校は夜間部であったから、夕刊を配達したのち、休む間もなくバイクに乗り、日本一交通量が多いと言われていた某国道を、忙(せわ)しく往復する毎日だった。

当時、新聞業界はまだ活気があり、新聞奨学生の待遇もそれなりに良かった。新聞奨学制度は朝日、読売、毎日、日経など各社に存在したが、最も待遇が良かったのは朝日と読売

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鍼灸師は一日にして成らず (新聞奨学生の日々)

鍼灸師は一日にして成らず (新聞奨学生の日々)

すべては新聞配達から始まった
もう20年近く前の話だ。当時は新聞配達をしながら鍼灸学校に通っていた。あの頃は、メディア界隈がバブリーな時代で、新聞業界も例に漏れず、ウハウハな様子であった。私が新聞奨学生としてお世話になっていた販売店には、社員は10名足らずしか在籍していなかったが、年収が1500万円を超える者が数人いた。

新聞奨学制度とは文字通り、新聞配達をしながら一定の奨学金をもらい、学校に通

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