私の恥ずかしいコメント失敗談 (noteの探求) 神は乗り越えられる試練しか与えない
今回は、私の過去のコメント失敗談を書きます。私にとってはとても恥ずかしいことであり、登場人物は実在する方です。お口の堅い方だけ、当記事をご覧下さい。
また、口の軽い方は、スキだけを押して記事から離れて下さい。口の軽い方は、必ず罰が当たるものです。これは、真実です。100%天罰を食らいます。口の軽い方は、どこに行っても口が軽いので、絶対にやらかします。こういう方々は、人として常識的な守秘義務を果たせないので、いつかどこかで社会的制裁を受けるものです。
この記事を紹介することは問題ございませんが、他のクリエイターの方々とこの件に関して噂話をすることは厳禁とします。そういうことを平気で行う方々は、品性下劣な人々です。
なお、この記事は、昨日下の記事で省略した「コメントの失敗談」に当たります。
大切なこと
最初にとても大切なことを書いておきます。
今から私が書く内容には、現在も活動しているnoteクリエイターの方が登場します。ですから、仮にその方が誰であるかわかったとしても、相手の方をそっとしておいてあげて下さい。
相手の方が傷ついたことは間違いないです。
私も多少は傷つきましたが、相手の方のそれは私の比ではないはずです。
本題に入る前に
専業主婦の極一部には要注意人物がいる?
私が過去にトラブルになった人の多くは、女性、しかも専業主婦ばかりです。おそらく社会人(アルバイトやパートを含む)としての経験がほとんどない人々なのでしょう。あるいは、余程、育ちが悪いのかもしれません。
というのも、大の大人にしては、非常識な行動や発言が多いからです。これに関しては、いつも数名の証人がいますので、私の主観的な意見ではありません。
男性でも女性でも社会人(アルバイトやパートを含む)になりますと、その会社や組織の中で下積みが始まります。いわゆる、底辺を経験する訳です。
底辺にいる誰もが経験しますが、ありとあらゆるしごきを受けたり理不尽な思いをしたりするものです。それは、その後、その人が社会でやっていくためのある種の洗礼みたいなものです。
noteクリエイターの方々で、極一部の専業主婦の皆様は、その社会的洗礼を受けていないのでしょうか???彼女たちはあまりにも非常識なのです。
読者の皆様は第三者です。当事者ではございません。
私は、今回の失敗に関して、自己弁護をするつもりは毛頭ございません。しかし、第三者がこの記事を読んだ時に受ける印象は、必ずしも中立性に基づくものではございません。
ですから、皆様がこの記事を読んだ時にどのような感想を持つかは自由なのですが、読者の皆様はその場にはいなかったということを頭の片隅に置いて下さい。あくまでも皆様は第三者なのです。つまり、当事者同士しかわからない事実もあるということです。
というのも、私の表現力では、必ずしも正確に実際に起こったことを説明できないからです。以下の文章は、できる限り客観的に書き記します。しかし、相手の方はここでは何も主張できないことを肝に銘じて下さい。
とても仲が良くなった主婦Aさんの話
数か月前の話です。陰謀・陰謀論系の記事を扱っている男性に出会ったのです。その方とはいつからか頻繁にコメントのやりとりをするようになりまして、2人の仲はとても良くなりました。お互いに尊敬・尊重するぐらいの関係です。私はその方を「戦友」と呼ばせていただきました。なぜなら、その方も私同様に持病と闘っていたからです。<なお、私の急性心筋梗塞は軽症だったので、今は全然平気です。全くの健康状態です。>
ところが、ある時のあるコメントで、その方が女性であることを知りました。私は何度も深く謝罪しましたが、ご本人は全く気にしているご様子ではありませんでした。
その女性(主婦Aさん)とは、もちろん、相互フォロー・相互スキの関係でした。当然ながら、その方の記事がタイムラインに流れてくる訳です。Aさんの記事は、当時は短めの記事でした。1~3行記事も多かったはずです。投稿回数は確か1日に3回程度でした。
その女性と仲良くなってからしばらくしてのことです。ある日を境にして、迷惑な記事をたくさんタイムラインで目にするようになりました。その記事を書いている方(Bさん)は、1行記事を1日に10回程度投稿するのです。そうしますと、タイムラインがそれらの記事で占有されてしまい、とても迷惑なのです。おそらく似たようなご経験をされたnoteクリエイターの方々も、大勢いるはずです。
そして、それらの記事のルーツを辿りますと、先程のAさんのマガジンに到達することが判明しました。
それで、ある晩にAさんにコメントで連絡しました。
「Bさんという方が迷惑な1行記事を大量に投稿していているので、AさんがマガジンからBさんを外して下さい」と。なお、括弧の中の後半部分を書いたかどうかは記憶が曖昧です。
随分前の話なので詳細は忘れましたが、確かこんな感じで連絡したはずです。
そして、翌日の夜のことです。
いつも通りnoteをチェックしていますと、ある異変に気が付きました。どういう経緯でその異変に気が付いたかは忘れましたが、Aさんから私に対するフォローが外れているのです。しかも、ブロックもされていました。
全くの意味不明の出来事でした。
しかし、思い当たることはたった1つしかありません。それで、慌ててBさんの記事やAさんのフォロー者を調べたのです。
その結果、驚愕の事実を知りました。
AさんはBさんを2番目にフォローしていたのです。しかも、記事の内容を見ると、どうもAさんとBさんは同一人物なのです(笑笑笑)。
決して笑い事ではないことは重々承知しております。
しかし、私の想像を超える結末で、呆気に取られてしまいました。
真実を相手に確かめた訳ではありません。
ですが、おそらくそういうことなのでしょう。
ちなみに、現在の私は気持ちの切り替えが非常に早い方なので、そのことは3秒で忘れました。
その後のことです。
その方(Aさん=Bさん?)の記事を数日前にたまたま見つけました。その記事を見ますと、以前よりずっと充実していました。少なくとも1行記事ではなかったです。ご本人も私の指摘で反省したのかもしれません(笑)。
詳細は語れませんが、本当に仲が良かった2人です。
しかし、所詮、男女に親友関係は成立しないことがわかりました。
相手が男性だったらこういう展開には絶対になりません。
私がAさんだったら、「〇鹿野郎、Bさんは俺だぞ!(ゲラゲラ)」程度で終わります。ところが、相手が女性ですと、こうはならない訳です。
ここまでの記事を読んだ読者様は、どのような感想をお持ちでしょうか?
私が軽率だった部分もあるかもしれません。
しかし、1行記事の10回投稿も、非常識極まりない事実です。
そういうことは、Twitterでやってほしいものです。
noteというプラットフォームは、そういうことをする場所ではないです。
ご本人には、そういう考えや自覚、常識がなかったようです。
その方とのご縁の修復は全く考えておりません。
相手の方も同じように考えているはずです。
相手の主婦の方は、「親友」の意味もわからないのです。
所詮、そのレベルの人だったということです。
ちなみに、その方との縁が切れてから、私のnoteは飛躍的に伸びました。
特に、スキの数が大幅に伸びたことを今でもはっきりと覚えています。
この失敗をどう生かすか?
私にとっては、とてもいい経験だったと思います。
失敗というよりも、成功のための糧だったのではないでしょうか???
また、女性、特に、専業主婦とのコメントのやりとりは、以前よりかなり慎重になりました。今のところ相手を深く傷つける失敗はないはずです。
相手の女性に対する謝罪は?
そんなものはありません。
ただし、相手の方が怒りのコメントをしたりメールをしたりしてきた場合、精一杯こちらの誠意を示します。
戦友(親友)がいきなりブロックとは、やることが大人げないです。
相手は、社会で揉まれていないお子ちゃまです。
ですから、こちらからできることは何もないです。
最後に
艱難辛苦の連続
人生は、積極的に行動すればそれなりに問題が生じるものです。
ですから、今後もあらゆる問題を前向きに捉えたいです。
私の人生は、艱難辛苦の連続でしたが、すべて成長の糧になりました。
だから、これで良かったのです。
今回取り上げことなどは、艱難辛苦とは程遠い問題でした。
ブロックは稚拙な手段?
noteには、ブロックという素晴らしい手段があります。しかし、話し合いや一切のコミュケーションもなしに、安易にこのブロックを使うことが最良の方法かというとそうでもありません。
なぜなら、ブロックされた方が必ずしも悪い訳ではないからです。
むしろブロックする側の稚拙性に問題があることも多いです。相手の言い分や説明を聞かずに安易にブロックする単細胞は、noteには向かないと思います。実際のところ、そういう人々はnoteでは全然伸びていません。
これは100%間違いのない事実です。
余談
記事とは全く関係ありませんが、記事を書いていましたら、次の小見出しの言葉が頭に浮かんできました。今日は土曜日で時間がありますので、ついでに書いておきます(笑)。
神は乗り越えられる試練しか与えない
この名言は、「新約聖書のコリントの信徒への手紙 第10章13節」が出典だそうです。日曜劇場「JIN―仁」の主人公である南方仁が何度も口にした名言です。
この「神は乗り越えられる試練しか与えない」という文章に対して、皆様はどのように思いを巡らすでしょうか。
人は長年生きていますと多種多様な問題にぶつかります。その際個人の問題解決能力が上記のような試練を乗り越えさせる訳ですが、正直なところ、これは個人差が非常に激しいと感じています。
例えば、若くして癌(がん)に罹患した人がすべて、その試練を乗り越えられる訳ではありません。ましてやそれが高齢者になればなおさらのことでしょう。
一見人様を感動させる名言に見えますが、実は、人を安心させるだけの無責任な名言にも思えます。
私の人生は、問題問題の連続でした。
30歳になる前の事件や事故、自然災害は、幸運の連続で切り抜けました。この頃の試練を自力で乗り越えたとは到底思えません。
30歳を過ぎて立場が上がってからは毎日が試練試練の連続でしたが、これらは自力の問題解決能力の高さで乗り越えました。
その後の闘病生活は、インターネットの情報と自身の分析能力で乗り越えました。
ですから、自分自身ですべての試練を乗り越えたという傲慢さはどこにもありません。むしろ、「いろいろな人々のおかげでそれらの試練を乗り越えさせていただいた」、という思いの方が強いです。
今回は話は以上です。
最後までご覧いただきありがとうございました。
また、いつもスキとコメントありがとうございます。
今後コメントする方も細心の注意でコメントしましょう。
私のようにトラブルに巻き込まれないことを祈っております。
なお、今回の字数は4,501文字でした。
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