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オリジナル連載小説 【 THE・新聞配達員 】 その92


92.   絶望の快感



3月の第2日曜日の夜。

佐久間さんの家に来た。
手ぶらだ。泊まりに来た。
明日が人生で最後の新聞休刊日だからだ。
明日というのは世間一般的な今晩の事だ。


泊まるといっても
ご飯をごちそうになって
ワインをごちそうになって
ピアノを聴いたり弾いたりして
ひのきで出来たお風呂に入って
一番上の3階の大広間で寝るだけだ。
殿様の気分で。


いや、
アトリエの穴蔵で寝るのがいいかもしれない。
芸術的パワーを頂けるかもしれない!
よし!そうしよう!
それが本当の目的だな!
私はアトリエにしか興味がなくなった!


もし私はカナダに行く予定がなかったら
こうしていたかもしれない生活を
一度だけ味わってみるというお試しの気持ちだ。
ずっとお試しの人生のような気もするが。


この考えは別に佐久間さんには話してはいない。
以前に佐久間さんが部屋は余っているから
住んでもいいぞと言ってくれたことがあった。
それでずっと気になっていたのだ。


もし佐久間さんの家でずっと暮らしたら
どんな人間になるのだろうか。


頭が狂うのは間違いない。
早く狂ってしまいたいと思う時も
大いにある。
きっとあの家に3年くらい籠もれば
音楽家か絵描きか何かしらのアーティストには
なれるような気がしてたまらない。
立派なイカれポンチの仲間入りだ。
ここ以上の学校はないだろう。


裏佐久間さんが出てこないことを祈るが
それもアートかもしれない。
必須科目かもしれないぞ。気を付けよう。
家は広い。
佐久間さんの部屋に近づかなければいいだけだ。


大きく息を吸ってからドアのベルを押した。
ジリジリジリー♪


「おう開いてるぞ!入れ!」


まるでドアが無いかのように
聞こえてくる佐久間さんのするどい声。


「失礼しまーす。」


いつでも綿菓子のように
ふわふわとした私の声。


「おう。来たか。」


ドアを開けると、
玄関に佐久間さんが立っていた。
浴衣姿だった。
なぜ浴衣なのだろう。
お泊まりだから民宿宿のイメージを
演出しているのだろうか。
まあいいや。気にしないでおこう。


靴を脱いで中に入りダイニングキッチンの
テーブルまで歩いた。
でもいつもの流れだった。
やかんに水を汲み、
美味しいお茶を啜った。



この後は食事とワインとピアノと来るだろう。
いつもはここまでで帰る。
しかし今日は違う。
夜が長びく。


佐久間さんが台所で何かしながら
庭を眺めてボーッとしている私に
声を掛けてきた。



「先に風呂に入るか?」


「はい。」


ついに私は二つ返事をした。
念願のひのき風呂だ。


ずっと気になってはいた。
中を見たことはあるが入るのは初めてだ。
浴室の壁も天井も床も浴槽も
浴槽と壁の間も
蓋も桶も小さな椅子も全て
ひのきで出来ているように見える。


浴槽の湯がすでにいっぱいで
ポコポコと沸き続けている。
まるで温泉だ。


「このカゴを使え。タオルもここに置いておく。遠慮せずに何回でも入れ。何回もな。」


さっとすばやく服を脱いで、浴室に入った。
檜の匂いで鼻がおかしくなりそうだ。
もうずっと取れないんじゃないかと思うほど。


湯船に浸かって口を半分開けて天井を見上げ
しばらくしていたら
佐久間さんが浴室を覗いた。


「どうだ湯加減は。背中でも流してやろうか。」


「いや、滅相もないです。大丈夫です。ありがとうございます。しかし、檜の匂い、いえ、香りがすごいですね!まるでどこかの温泉旅館に来たみたいです。行った事はないですけどね・・」

「そうだろう!この檜は木曽檜きそひのきといってな・・・・」


なるほどどうやらすごい檜のようだ。


「高そうですね。」

「そうだな。浴槽だけで120万円だったな。あとの細かいのは忘れたな。」

「ひゃ!ひゃくにじゅうまんえん!」

「うむ。確か風呂全体で300万くらいだったぞ。まあ伊勢神宮にも使われている由緒ある檜だ。すごいだろう。お前のそのつるつるのケツを温めてるのは御神木ごしんぼくだ。」

「も、もったいない!」

「ははは、大丈夫だ。これが似合うほどの男になればいい。お前ならなれる。」

「がんばります。」


いつもの銭湯のケロリンと書いた
プラスティックの黄色いの椅子と桶が
脳裏にチラついた。


しかしいい加減佐久間さんには
浴室から出ていってもらわないと
のぼせ上がってしまう。


フルチンで堂々と風呂場で会話するほど
私は大人ではなかった。



「すいません。そろそろ出ます。」

「おーそうか。ここにタオルを置いてある。浴衣も置いておくからな。これを着て寝るといい。そうだ。拭いてやろうか?」

「えっ?いや、そこまで子供ではないですけど。」

「ははは!まだまだ青いな真田丸は。遠慮する事ないぞ。そうだ。風呂上がりに飲む水を用意してやろう。これがまた格別美味うまいんだ。」

「・・・・」


佐久間さんが台所のほうへと歩いていった。
やっと一人になれた。
これは気が休まったもんじゃない。
なんか帰りたくなってきたぞ。
すぐ戻ってきた佐久間さん。


「これだ。」

「うわあ!」

「なんだ?」

「いえ、まだちゃんと拭けてないんで・・」

「男同士でそんな恥ずかしがることでもないだろう。これだ。この水が美味いんだ。」


透明の長細いグラスに水が入っている。
冷えているわけでもなく温かいわけでもなかった。
恐る恐る口に含んだ。


まろやかだ。そして甘い。
何だろうこの水は。
井戸水の鉄臭さはなかった。


「35億年前の温泉水だ。空海も飲んでいたという水だ。」

「えっ!空海って!そんなすごい水なんですか!めちゃくちゃまろやかすぎてなんかトロッと、とろみがあるような。古いからですかね?」

「水は腐らん。コップに1杯だけその風呂にも入れてある。肌が綺麗になるぞ。」


どうりで佐久間さんは肌の色が白くて綺麗だった。


「さあ、カレーを食おう。シャルマンが最近忙しくて来ないから見よう見まねで私が作ってみた。」


とても良い匂いがした。
トマトが多めでスパイスが少なめで
ちょうど私好みの良い味に仕上がっていた。


ワインも美味かった。
値段はさっぱり分からなかった。


食事を終えてワインをおかわりし、
同時にコーヒーを飲んだり
またワインを飲んでから
またコーヒーを飲んだりして、
喉はせわしいが体はまったりとした。


良い感じに心が仕上がっていくのを覚えた。
アートへの準備が整っていく。


佐久間さんは少し酔ったように、
よろけながらピアノの椅子に座った。
勢いよくピアノの蓋を開けて
鍵盤の上の赤い布を床に滑り落として
鍵盤を叩き始めた。
いつもの曲たちだ。
なぜか間違えていても気にはならなかった。
この部屋の雰囲気が間違いすらも芸術化していた。


良い気分だ。
いつもの自分はすっかり居なくなってしまった。

すごいモノを作り出せる気になってきた。



さて気になるのはアトリエだ。


天井を見つめる私。
その天井の裏側はアトリエの床だ。
佐久間さんが言った。


「もう一回風呂に入るか?それとも、もう寝るか?3階の広間に布団を敷いておいた。いつでも寝ていいぞ。」

「アトリエには入ってもいいですか?」

「おう。アトリエが気になるのか。いいぞ。勝手にしていい。好きにやれ。
私は少し疲れたから自分の部屋で休もう。何かあったら声を掛けに来い。」


「ありがとうございます!」



佐久間さんがよろけながら自分の部屋に
消えていくのを見届けてから、
私は浴衣をはだけながら
アトリエのある2階に上がった。

うーむ。なんともこの狭さがたまらない。
ギュッと絵画たちに両方から
揉まれているような感覚だ。
ずっとここに居られそうだ。

私の体くらい大きなキャンバスが
何枚も立て掛けてあった。
ほのかなオレンジの灯りしかなくて薄暗い。
その薄暗さも作品に含まれているかのように
作品達も物悲しいものばかりだった。



何を描いているのか分からない絵ばかりだ。
心の中を表現しているようだ。
建築のデザインとして使用したのだろうか。
聞けば分かるのだろうが、聞きたくはなかった。
言葉に出来ない何かを感じ取りたい。

風景でも人物でも物でもない絵画たち。
明るさのない色の絵の具達の盛り上がり具合を
指で確かめてみる。
まるで私が描いたかのよう。


何枚も立て掛けてある絵画達。
私が来た瞬間にむせび泣く絵画達。
置ききれなくて
床に重ねてあるものもある。

ふぅ。


ワインが足りないな。
私はスリッパを履いて1階に戻り
ワインをクイッと飲み干してから
またアトリエに戻った。

またしばらく絵画をめくっていたら
何か文字が書いてある絵を見つけた。
文字が絵のようになっている。

黒に白い字でまるでムンクの叫びみたいな
形の文字が大きく波打って書いてある。


なんて書いてあるのだろう?
読めないな。


これは、、、【貫】、、って字だな?
きっとそうだ。
これは、、、【私】、、って字かな?
解読せずにはいられない。



【切】?
【裂】?
切り裂くか?
なんか怖いイメージになってきた。


次は、
【絶】?
【屍】?
なんとなく繋がってきたぞ。
どれどれ
読んでみるかな。


『私を、、、貫いた者達は、、、みな絶えた、、私は真っ二つに切り、、、裂かれ、、、夜の街を彷徨う、、、屍たちが』


なんか気持ち悪さを覚えた。


『・・・・屍達が泣き、私だけがそれを見て・・・笑う』


「どぅうぉうぉ〜い!!」
私は変な声をあげてしまった!
ぶるっと背中に寒気が走った。


『・・・・屍達が私を愛し私だけが息をしている・・・・』


「なんなんだ!これは!ダメだ!気持ち悪い、おえぇ・・・」


今さら自分の家に帰るわけにはいかない。
佐久間さんの居る部屋に行くのも嫌だ。
すごく寒気がしてきたぞ。
布団に入りたい。


私は急いでアトリエを出て階段を登りきり
3階の広間に入った。


佐久間さんが敷いてくれていた布団があった。
旅館にあるような白くてモコっとしている
せっけんの泡のような布団が。
暖かそうだ。


私は冷え切った体を布団に潜り込ませた。
そして体をまるめてうめいた。



「うー。気持ち悪いー。寒いー。やっぱり俺は芸術家には向いてないんやろか?うーっ!寒いぃー!ガチガチ・・・・」



頭まですっぽりと布団の中に入って丸まった。
自分の吐いた息と体を動かしまくっていたおかげで
しばらくすると大分温まってきた。


息苦しくなってきたので、
顔だけ出して、ちゃんとした姿勢で
仰向けになった。

やっとまともに戻った私の心。
何かに取り憑かれていたようだ。
いや、酔いが回っていただけかな。
またワインを飲みたくなってきたぞ。


いつも通りの思考で
まっすぐ上を見つめる私。
天井が高い。
静かだ。
下の階からは何も聞こえない。


「カタッカタカタ、チュー」


天井からカタカタと音が鳴った。
これには驚かない。
前にも聞いたからだ。
この音は天井裏にいるネズミたちの足音だと
佐久間さんが言っていた。
よく耳を澄ませば話し声も
聞こえてくるかもしれない。
ネズミ達の会話が。


『おい!めずらしく客が来たぞ!どうやら泊まっていくらしいぞ!』

『おい!あいつなんか怯えてるみたいだけど、歯を磨いていたか?』

『いや、歯を磨いているところは見なかったな。』

『そんなことじゃ、俺みたいな立派な前歯にはならんぜ!』

『そうだよな!この前歯の破壊力でこれまでどれだけの壁をぶち抜いて来たことか!』

『そうだろ?そう思うだろ?もっと言ってくれよ!どうだい!俺の前歯!』

『光ってるよ!ピッカピカだよ!まるで宝石のようだよ!』

『だろ?』


気が紛れた。
もうこのまま寝よう。
ワインも歯磨きも芸術も諦めよう。


目を閉じた。



『チュチュー。
カタカタカタ。』



ネズミたちよ、
ありがとう!
そして、おやすみ。


『カタカタカタッ。
チュー、チュー。』


『カタカタカタッ。
チューチュー。』


なんか賑やかになってきたぞ。
やはり私が来て
少し興奮しているのだろうか。
私を食べる計画でもしているのだろうか。


『カタカタカタッ。
チューチュー。』



『カタカタカタッ。
チューチュー。
ペロッ。』



ん?なんだ?今のは?



『カタカタカタッ。
チューチュー。
ペロペロ。』


なんか足元が冷たかった。


『カタカタカタッ。
チューチュー。
ペロペロッ。』


やっぱり今ペロッと
足の指を舐められたような気がしたぞ。
どうやらネズミたちは私が寝たと思って
降りてきたようだ。
これは参った。
どうしてやっつけようか。
今晩は一晩中ネズミのチュー太郎達との
戦いになりそうだ。
望むところだ。
長い夜になりそうだ。


『カタカタカタッ。
チューチュー。
ペロペロ。
ペッロペロ。』


ペロの回数が増えた。


『カタカタカタッ。
チューチュー。
ペロペロペロペロ。
ペーロペロッ!』


どんどん舐めだしたぞ。


まずは寝ている振りをして
油断させておこう。
その間に、どうやってやっつけようか
考えている。


しかしその間にどんどんと
舐める回数が増えてきた。
ん?上に上がってきたぞ!



もうしばらく待ってくれ。
どうしたら一撃でやっつけられるか
考えてるんだ。
今起き上がれば皆が一斉に逃げ出して
もと木阿弥もくあみだ。
しかし捕まえるとなると
手で触る必要がある。
触りたくないなぁ。


『ペロペロペロペローッ!
ベロッベロ!』


もう
カタカタもチューチューも
聞こえなくなった。
もしかして全員降りてきて
私の足を舐める為に
順番待ちしているのだろうか。
ネズミの行列を見てやるか。


私はうっすら目を開けて
足元を見た。


な!
な!
なんと!


いや、
何かの間違いだ。
夢だ。
これは夢に決まっている。


私は一旦目を閉じた。


でも舐め続けられている私の足。


なぜだ。
なぜ佐久間さんが私の足を
舐めているんだ?


ペロペロペロペロ。
ペロペロペロペロ。


もう一度うす目を開けて
足元を見た。


まるでねずみのように
背中を丸めて私の足を舐めている
佐久間さん。
どうやら私が寝ていると思っているようだ。
ん?
寝ているからといってなぜ舐めるんだ?


そうか・・・
そうだったのか・・・
そのがあったのか・・・・



でも・・・・
【その】ってなんなんだ?


人間なら誰でもいいのだろうか?
私が若いからか?
私が男だからか?
私だからか?
先輩もそのまた先輩も
舐められたのだろうか?
細野先輩はそれを知ってて
佐久間邸を敬遠していたのか?


いろんなことを考えているうちに
佐久間さんの舌は私の浴衣の肌けた足の
ふくらはぎからふとももへと移り、
またふくらはぎに戻ったかと思ったら
今度は足の指を舐め始めた。


足の指と指の間に舌が入った。
私はぞくぞくっと全身を震わせてしまった。
もうこれ以上は耐えられそうにない。
私は勇気を出して足を動かした。


「とっくに起きていたようだな。どうだ。気持ちいいだろう。次はどこがいい?」


今までにない声色だった。
強くも弱くもない声。
男でも女でもない声。
その声を聞いて私は金縛りにあったかのように
体を動かせなくなった。


ペロッ。


私の足の指を一回だけ舐めてから
佐久間さんが言った。


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真田の真田による真田のための直樹。 人生を真剣に生きることが出来ない そんな真田直樹《さなだなおき》の「なにやってんねん!」な物語。

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