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もし義務教育に「観察」という科目があったなら、我々のハグとkissはサマになる。

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人は死際に過去の記憶が走馬灯ように蘇ると言われている。これと同じようなことが気功を習得していく過程でもよく起こる。体が弛むと脳も自然と弛むからであろう。

人は、柔らかい状態で産まれ、固くなって死んでいく。けれども、死ぬ間際に柔らかくなることを天から許されるのだと思う。それは心を弛ませ、後に残る者たちに感謝の気持ちを伝えるためではないだろうか。

『人が死ぬときに後悔する34のリスト』(川嶋朗著/アスコム)という本がある。著者は現役の医師である。自分の理想の死(=QOD)について準備することで、生活の質や心の充実度(=QOL)が高まるそうだ。

後悔は結果論であって、後悔と思わなければ後悔は残らない。負けてもいずれ勝つと信じれば、負けは負けにならないのと同じである。そうは言っても私にだって後悔はある。山ほどある。日々の気付きは過去の後悔があってこそ。そのことに“いま”、気付けた私はなんと幸運なオトコであるか!

私には3歳の姪がいる。週に3回は会っている。いつも姪を見ていて感じたこと。それは、幼いうちから人には「支配欲」が備わっていることだ。

自我が芽生え初めたばかりの子どもから発せられる言葉。そこには大人が大切なことを閉じ込めてしまった扉を開けるヒントが隠されている。

誰でも子ども時代を振り返れば、褒められた経験が最低でも一度や二度くらいあったはずである。けれども、誰かのために何かをして褒められた経験って意外とないと思う。私に関しては、特にそうである。確かに、人を褒めた記憶って、成人してからのことばかりだ。

なんで、子ども時代の私は褒めることを知らなかったのだろう?
しばらく考えて出た答えは、意外にも単純なことであった。
それは、他者を観察することの大切さを教えてもらえなかったからである。別にそのことを親や教師のせいにつもりなど毛頭ない。親や教師も教えられずに大人になってしまったはずだ。いま気付けたことは、いまからやればいいだけのことである。


もし、いじめが起これば、加害者側に聞けばいい。
そのとき、被害者の表情はどうだったか?
そのとき、被害者の気持ちはどんな風に外見に表れていたか?
そのとき、周りの人はどんな風に見ていたか?
そのとき、いじめたあなたはどんな感情を抱いていたか?
そのとき、加害者であるあなたの感情は、あなた自身の体にどんな影響を与えていたか?

聞く側に想像力があれば、このような質問もできるはずだ。
いま相手が着ている洋服のデザインを見て、あなたはどう感じるか?
今日の朝、その服を選んでいる相手は何を考えていたであろうか?
あなたがいない場所で見せる相手の笑顔はどんな感じであるか?

観察は、道徳を超える力を持っていると私は信じている。なぜなら、道徳を観察することはできても、道徳そのものは観察力を持っていないからだ。

道徳とは、すでに言語化された世界に基づく理念に過ぎない。その反対に、言語化されていない世界を五感で受け止め、どのようにして互いの臨場感レベルを共有し、対話へ続く道を模索していくか? それを可能にするのが観察である。

私は提言したい。もっとこの国に観察を!

あなたも私も人生を手放するときが来る。人は自分の人生さえも支配することはできない。みな自分以外の人の心の中でしか生き続けることはできないのだ。

観察なき言葉。それは他者への暴力であり、人生の放棄でもある。いまこそ観察だ。他者の観察を通じて、甘く濃密な人生を送ろうではないか。

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