労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈23〉

 労働力=労働者の内在的な理由にもとづいた、労働者同士相互の差別化により、彼ら労働者はそれぞれ内在的な能力の有無や優劣に応じて、それぞれバラバラに分断されていき、それぞれ内在的な能力の有無や優劣にもとづいて、それぞれにいたるところで互いに対立するようになる。しかしそのような分断や対立は、けっして今にはじまったことではない。労働市場においては、常にそのような分断や対立による「競争」が市場取引の活力になるのだとして、むしろ積極的に奨励され、かつそれを真に受けて、自らを売りたい個々の労働者たちは、自分たち自身によって互いにより分断し合い対立し合ってきたのである。
 なぜか?
 それは「彼ら個々の労働者は、個々の労働力商品として、個々に自由だから」である。個々の商品としての労働力を個々に買われて、その「個々の自由を達成すること」が、彼ら個々の「自由の目的」だからである。そしてその目的は、「他の労働力が買われないことによって、自らの労働力が買われることで実現する」のである。だから、個々の労働者の間での分断や対立による競争は「必然的なもの」なのだと言えてしまうのである。
 ここにいたって「万国の労働者、団結せよ」というスローガンは、矛盾というよりもはや「皮肉」にさえ聞こえてくる。労働者たちは、それぞれが労働者であり続ける限り「みんなで団結することなどけっしてできない」のだ。もしうっかり団結などしてしまったら、彼らの誰一人として「個々に売ることができなくなってしまう」のであり、彼らの誰一人として「個々に労働することができなくなってしまう」羽目にまで陥る可能性があるからである。

 ところで、実際に買われなかった労働力、労働できなくなった労働者は、結局どうなるのであろうか?
 「就業していない労働者、この労働関係の外部にいる限りでの労働人間」(※1)は、あたかも「国民経済の領域外にいる亡霊たち」(※2)であるかのように見なされるのだとマルクスは言う。つまり彼らは国民経済の内部においては「人の目につかない存在として、亡霊なのだ」と。いやむしろ「亡霊として見出されているだけまだマシ」だというくらいに、それらはとことん「その存在まるごとなかったことにされる」のだ、と。
 一方で彼ら「亡霊たち」は、「国民経済の内部にいる労働人間たち」を、つまり「実際に労働できている人たち」のことを、自分たち自身が「そのような者たちではない」のだということを絶えず自分たち自身に意識しながら、その領域外から絶えず観察しているのである。そしてそのように「絶えず観察すること」によってこそ、「自分たちはまさしく就業していない労働者に他ならないのだ」と自分たち自身のことを意識し、かつそのように自分たち自身を見出しているのである。
 結局のところ、人は「たとえ労働していないときにでも、そのように絶えず労働に引き戻されている」のだ。「労働していない労働者」として、その労働関係に引き戻され、「その関係の内部」においてだけ自分自身を見出している。つまり彼が実際に労働していようと労働していまいとに関わらず、彼を労働人間にしている、彼自身の関わるその労働関係から、彼自身としてけっして抜け出すことができない」のである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 マルクス「経済学・哲学草稿」
※2 マルクス「経済学・哲学草稿」

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