イデオロギーは悪なのか〈16〉

 アルチュセールは国家の持つ機能を、「国家の抑圧装置」と「国家のイデオロギー装置」に区別して考える(※1)。この点が彼の特色的な思想であり、彼のイデオロギー論の「価値」を高めているところでもある。
 ところで、「抑圧」とはそれ自体「関係を表象する」ものである。つまりもし「国家装置」が「抑圧的」であるとすれば、それは「国家との関係が抑圧的に作用している」ということであり、また「関係とはイデオロギー的なものである」とすれば、それが「イデオロギー的な関係の表象」だと言えるのである。アルチュセール自身も言っているように、「純粋にイデオロギー的な装置など存在しない」のと同時に、「純粋に抑圧的な装置も存在しない」のである。

 国家に対する関係において互いに関連づけられている体系的な関係の中で、支配的な立場あるいは他方の立場に対して「ヘゲモニー」を掌握しているような立場とは、むしろそのような立場に対するヘゲモニーを「国家に対する関係において、国家に譲り渡している」ことによって可能なのだと言える。
 国家とは、その領域の内部における諸関係を体系化し統合し調整し統制する立場を占めている。言わば「支配的な立場」にあるということである。その国家の領域の内部において「支配的な立場にある」ということは、その国家の立場において支配的であるということになる。
 そのように、「国家の立場に立つ」ということは、「国家のイデオロギー的主体」もしくは「国家イデオロギーの主体」の立場に立たなくてはならない。それは、国家において統合され調整され統制され体系化されたイデオロギーの「主体」であるということである。そのためには、国家に対するイデオロギー的な関係を、調整し統制し統合して体系化するヘゲモニーを「国家に譲り渡す必要がある」のである。それによってはじめて、そのような立場に立つことができるのだ。そして、「国家の立場において自由に活動することができる」ところとなる。「権力」とは、そのように機能するものだと言える。いや、「そのような機能そのもの」を「権力」と呼んでもよい。

 反対に、そのような関係において「被支配的な立場」あるいは「抑圧されている立場」にあるというのは、国家に対する関係のイデオロギー、あるいはそれを調整し統制し統合して体系化することのヘゲモニーを「国家に譲り渡していない」ということであり、国家に対する関係において「イデオロギー的な関係として対立している」ということである。
 そしてあたかも「支配的な立場には支配的なイデオロギーが固有に存在する」ように思えるのは、それに対立するイデオロギーをそれに対立する立場において見出しているからだということである。「俺たちがその立場に立てばこうなるはずなのに」ということが、一つの「固有のイデオロギー」として見出されているのである。
 その意味で彼らにとって「支配的な立場に立つ」ということは、「自らの固有のイデオロギー」によって国家を統制し調整し統合して体系化する立場に立つということである。要するに彼らは「自分たちは国家を支配できる」と考えているわけである。ゆえに「現にある支配的な立場の、支配的なイデオロギーを排除」すれば、そこに「自らのイデオロギーを置き換えて、自らが支配的な立場に立つことができる」と考えるのである。
 それに対して国家はむしろ、「自らのイデオロギー」をもって対立しようとはけっしてしない。繰り返せば、国家とは、その領域の内部のイデオロギー的な諸関係を体系化し統合し調整し統制することを、専らの目的としているものである。だからそのイデオロギー的な関係が「具体的」にどのようなものであろうとも一向に構うことはないし、たとえどのようなものであろうともそれを体系化し統合し調整し統制して、「国家のイデオロギー的関係に置き換えることができる機能を持っている」のである。つまりここで対立しているのは、「自らのイデオロギーは他のイデオロギーによっては置き換えることができない」と考えられているような関係における対立であって、「国家」はむしろそのような対立においては悠々たる「傍観者」なのである。
(つづく)

◎引用・参照
(※1)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」

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