労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈18〉

 経済の成長発展にもとづいて、産業資本の生産流通活動が次第に国際化・グローバル化していくことに伴い、その国の国内企業の「生産部門が国外へと広がっていくことで、資本の循環が領土的な枠組みのなかには完結しえなくなって」(※1)いってしまう側面もまた、しだいに明らかに見出されてくるようになる。言い換えれば、資本の活動が国際化・グローバル化するのに伴って、各個別資本の生産活動に使用される「労働力」の導入もまた、国際化・グローバル化せざるをえなくなってくる。
 「より安い労働力を導入すること」によって生産コストの余剰を生み出したい産業資本としては、もし自分たちの生産手段として制限されることなく、高騰する国内の労働力より格段に安い国外の労働力を導入することができるならば、もちろん躊躇なくそうしたいというのが本心であろう。資本にとって重要なのは、自分たちが生産手段として使用することのできる労働力が国内のものか国外のものかではなく、その労働力を生産手段として導入するにあたって、それにかかるコストは「どちらが安いのか?」ということに尽きるのであり、実際問題として「それのみ」に彼らの関心は集約される。国民だろうが国家だろうが、何処の誰に義理立てし気兼ねしている場合ではないのだ。端的に言ってこれは資本にとって、自らの存亡にかかわる最も重大な問題なのであり、まさしく彼ら自身の死活問題となりうる究極的な懸案なのである。

 一方で国民経済の発展においては、資本がただ単に生産手段として労働力を安く買うことによって余剰を作り出し、その自らの資本を増殖させていくということだけでは、その十分な推進力とはならない。
 資本が生産し売っている商品を実際に買っている消費者、すなわち自らの生活の維持のための生活資料として資本が生産し販売するそれらの商品を「買わなければならない立場」にある労働者自身の、その購買力もまた同様に発展させていかなければ、生産された商品が実際に売られ買われることになる、国内市場自体の発展はとても見込めない。だから一定程度は資本の方でも、彼ら自身がその生産手段として買い取る「労働力の価値」すなわち労働者が自身の生活資料を購入するための費用を、「その購買力の発展に見合うもの」として一般的かつ相対的に、それまでに比べて段階的に高く、その段階に相応する水準で賃金を見積もり、そしてそれを実際に労働者に支払うこととなる。
 さらにそれに応じて、その「それまでに比べて相対的に高くなった賃金」をもって各々自分自身の労働力の再生産手段として労働者各々が購入することとなる、さまざまな生活資料の価格すなわち資本の販売する各商品の価格もまた「それまでに比べて相対的かつ段階的に高くしていくことができるようになる」わけなのだ。
 たとえ各々の商品の価格が、それまでに比べて「相対的に高くなってきた」としても、今やそれを補って余りあるほどに、それらの商品を実際に買う消費者でもある労働者たち自身の賃金もまた「それまでに比べて相対的かつ段階的に上がっていく」ことで、彼ら消費者の購買能力が「それまでに比べて豊かなものとなっている」のであるならば、彼ら労働者たちも、むしろ喜んで実際のその生活維持に必要である以上により多くの、そしてより高価な商品を買うことができることだろう。
 資本の側は思う。彼ら消費者=労働者は今や、それら相対的に高価な商品を買うことのできるほどの「余剰」を持っている。そして実際それはそれまでに比べて、十分すぎるほど豊かに生み出されているではないか?まさにそのような「余剰」こそが、「国民生活の豊かさ」を実感させるものなのだということになるはずだ、と。

 国内市場の発展とは、とどのつまり「買う市場」としての発展であると言える。個々の消費者の「買う力の豊かさ」と、そのさらなる発展が、市場自体をもまた発展させていくものであるわけだ。
 資本は国内市場において彼らの売る商品が「さらにより高く売る」ことができるために、また、そのより高い商品を「さらにより多く売る」ことができるようになるためにも、その商品の実際の買い手でもある労働者たちの購買力を「さらにより高めて」いかなければならない。資本は、商品を生産するのとともに、消費者でもある労働者たちの「買う力」をもまた、生産していかなければならない。
 だからその過程の中で、「労働力の価値」もそれまでに比べて段階的かつ相対的により高くなっていくことになるし、またそうせざるをえない。そして一方では、そのように「自分の評価が上がっていくこと」を喜ばない者などいないのだから、ゆえに労働者たちはそれによって、ますます自ら進んで労働することになる、はずだったのだが…。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 萱野稔人「国家とはなにか」

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