労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈28〉(終)

 労働者の賃金アップや労働時間短縮などを強く求める声がある。また、労働力を商品として扱うのではなく、もっと労働というものの「本来の意味」や「本来の価値」を見出すべきだという意見も聞かれる。いかにもごもっともな話である。しかしそのような功利的な観点から労働を見ている限り、人間の「自然で重層的」な諸活動をただ「労働のみ」に縛りつけている現実の状況は何ら変わりえないだろう。
 ここでたとえばシモーヌ・ヴェイユが言うような、労働に「芸術」を見出そうというような視点を加えたとしても、やはりそれは同じことだ。その芸術なるものが、人が実際に労働「すること、あるいはしていること」を前提としていて、逆にそれが「ない」という場合には得られないものであるようならば、そこで「現実の労働」が人質に取られ続けることになるというのは相変わらずなのである。
 一方でマルクスは「各人はその能力に応じて、そして各人にはその必要に応じて」というようなことを言っている。やれやれ。ここにおいても結局のところ、各人がその能力に応じて「差し出す」ということが、話の真っ先に出てくるわけだ。こういった発想が抜けない限り、「働かざる者、食うべからず」という言葉の圧力にいつまでも根拠を与え続けることにつながるだろう。
 各人にとって、その各々に能力があろうがなかろうが、また差し出せるものがあろうがなかろうが、自分自身が心底必要としているものについては、何をさておいても必要なのだ。そのような「必要」こそが、本来この議論の真っ先に出てくるべきではないか。その「必要」を前にしては、いかなる能力も差し出す何物も、後回しにするべきなのが道理ではないのか。
 そしてそこから事物の本質に立ち返り、さらに我が身の「必要」について省みてみるならば、「必要以上のものなど結局のところ、誰にとっても何にとっても必要がないのだ」ということについても、人はここで十分に気づきうるだろう。「各人はその必要に応じて」、ただそれだけでよいことではないのか。それが人間の自然であり、必然なのではないだろうか。それでもなお、他人から「搾取」しなければならないほどの一体何が、人間として「必要である」と言えるのか。

 ここまで再三言ってきたように、この現代の社会において人は自らが唯一所有する商品である労働力を売らなければ、現実にその生存を維持していくことができないのだと、一般的には全く当たり前のように考えられている。しかし、その労働力という「力」は、実際には目に見ることができないものなのである。人の目に実際に見られることになるのは結局、人の現実的で具体的な労働の「姿」だ。ところが人はここで、この現実的で具体的な人間の労働の「姿」を、実際には目で見ることもできない、「力」としての労働力を見るのと同じように、観念または抽象されたものとして見出してしまうのだ。労働と労働力をめぐるあらゆる倒錯は、ここにはじまることとなる。
 そして言うまでもないことだが、「人間は労働力を売らなければ生存を維持できない」という考えもまた倒錯に他ならないものである。そもそも人間の自然・本性として、たかだか「そんなこと」で生存それ自体が維持できなくなるわけがないのだ。逆に言えば、むしろそのように「たかだかそんなこと」で生きられなくなるような世界=社会を、他の誰でもない人間自身が作ったということなのである。

〈了〉

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